小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

548 人間の尊厳を思う 映画「さまよう刃」

画像 広島県北広島町の山中で遺体が見つかった島根県立大1年、平岡都さんの事件は悲惨だ。首が切り落とされ、体も多くの傷があったという。遺族にとっては耐え難い事件である。映画「さまよう刃」を見て、犯罪被害者の苦しみ、悲しみを思った。 昨年9月のブログ「人間の根源とは」で、映画の原作(同じ題名)の小説(東野圭吾)に触れた。その際、何人からコメントがあった。その一つに「この本は映画化されないことを願います」というものがあり、私も「映画化されると、もっと残虐な印象が強くなってしまうと思います」と返事をした。 それは杞憂だったかもしれない。映画はかなり抑制をしていたと思う。寺尾聡は、一人娘を失った父親の苦悩、犯人への怒りをクールに演じている。 映画はあくまで映画であり、原作とは異なる部分もある。(長野のペンションの女性の,主人公に対する対応、ラストシーンなどだ)しかし、原作も映画も犯罪被害者には「救いがない」ことを訴えている。さらに、凶悪化する少年犯罪に、法律が追いついていないことも浮き彫りになる。 千葉大生が殺された事件では、被害者のプライバシーが週刊誌やテレビのワイドショーによって徹底的に暴かれてしまった。まるで、彼女の私生活が犯罪と関係があるかのように。これらのメディアは被害者家族の心情を推し量ることができないのだろうか。 多くの犯罪被害者の家族は、心では犯人に対し復讐したいと思うだろう。だが、さまよう刃の主人公のように直接的行動はせず、一心に苦悩や悲しみを背負いこんでいるのである。現代日本は人の尊厳を忘れたのではないかと思うほど、難しい時代に入っている。映画のラストシーンは、実はそうした時代への問いかけのように思えてならない。 さまよう刃の主人公は、犯人の一人の少年を殺し、さらにもう一人を追う途中、警察へ手紙を書く。その中の一節が心に残った。 (一度生じた「悪」は決して消えることはありません。彼らによって生み出された「悪」は、永遠に私の心の中に残り続けるのです)