小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

523 遥かなりラオス(4) 山岳地帯へ・その4

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 豊かさとは何なのだろう。実はこれまでのラオス滞在中、この疑問が頭から離れなかった。タオイに到着して、その答えを考えようとしたが、出てこなかった。経済的、物質的な豊かさ、それがなくとも精神的な豊かさがあれば、人間は幸せなのだろうか。では、ラオスでも辺境のタオイに住む人々は日常、何を考えながら生活を送っているのだろうか。

 宿泊場所のNGOの地区センターは、本棟といくつかの別棟に分かれている。食事は本棟で取る。女性の金子さんは本棟に泊まり、男性陣は別棟の小さなバラックが宿舎だ。ドアを開けると、小さなたたきがあり、右側にさらにドアがあって、中に入ると左側に大きな水がめ、右側にまたがり式のトイレがある。ここで大小をして、水がめの水を杓子ですくい、トイレにながす。シャワーはないので、この水がめの水を使って、体を洗う。

 たたきの左側にははしごがあって、それを上ると、4畳半程度の寝室になっている。蚊を防ぐために、蚊帳がつってある。子どものころを思えば、こうした環境は何でもないはずだが、少したじろぐ思いだった。何度もこの宿舎を使っている谷川さんと金子さんは平然としている。2人とも慣れてしまったのか、順応性があるのだろう。

 10時間かけて山岳部に入ったのに、翌日は一日中雨が降った。朝、センターの下にある川では、大人や子どもたちが川に入って体や髪を洗っている。女性は服を着たまま入り、服の中に手を入れて体の汚れを落としている。初めて見る光景だ。その人たちはそのまま濡れた服で帰っていく。

 私は体を水がめの水を使いタオルでふいた。伸び始めたひげをそろうとして、鏡がないことに気がついた。どこにも見当たらない。仕方なく、手探りでひげをそる。自分がどんな顔をしているのか、どんなもじゃもじゃ頭をしているのか、全く分からない。それは不思議な経験だ。 この日は、センターを拠点にさらに山岳部に入ったいくつかの学校に行く予定だった。しかし、雨で道路のぬかるみがひどくなり、ノンちゃんは車では行くことができないし、徒歩でも無理と判断した。

 待機の一日、タオイの地区を歩いた。機織り機の前に座る女性たちが目に付く。ここは、絹織物が盛んなのだ。機を織る奥さんのそばで携帯電話をいじっている夫がいた。この辺では携帯電話は豊かさの象徴なのかもしれないと思ったりする。ラオスでは女性の方が断然働くと聞いたが、タオイもやっぱりそうなのか。

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 かつてサラワンの平地で学校の教師をしていた女性の家にお邪魔した。夫と教員の研修で知り合って結婚して山岳部に住むようになったそうだ。赤ちゃんを産んで1週間という彼女はやつれた顔をしていながら、旧知の金子さんの顔を見てほほ笑んだ。まだ22歳の若さだ。あどけなさが残っている。 その家は、2間しかない高床式の小さな家だ。小学校の教師をしているご主人との手作りの家なのだという。赤ちゃんは女の子で、お母さんに似て愛くるしい顔をしている。

 彼女も知っているというAEFAの歌を金子さんが歌おうと言い出し、金子さんのハンドロールピアノの演奏で歌う。 「君と僕は友達 大きな輪をつくって夢を広げよう さあ始めよう ほら、ほら一緒に手を広げて ほら、ほら一緒に歩き出そう」 すると、彼女も小さな声で歌い始めた。みんなの合唱に驚いた赤ちゃんが泣きだした。

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 せっかく、若い夫婦がつくった小さな家は、政府の道路計画用地に当たって、来年には立ち退く必要があるという。しかし、ラオス政府は、そうした公共用地の接収の際には、代替地は提供しないため、若い夫婦は途方にくれていると聞いた。この後もう一軒お邪魔した。地区にある教育省の出張所に勤務する公務員宅だ。そこは先ほどの家より少し広くなった家だが、6、7人が住んでいた。

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 再び、豊かさとは何だろうと自問した。この地区の平均の年間の収入は日本円で3000円程度しかない(ラオスの06年の平均は約5000円)というから、自給自足の生活が基本なのだろう。私から見るとタオイの人々は経済的、物質的に恵まれていない。だからといって「彼らは貧しい」と言い切ることはできない。自然の中で、牛や鶏たちと一緒に精一杯生きている姿を見ると、私たちが失った何かを、この人々が持っていると思われるのだ。(続)

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(最後の写真は地区の立派な病院。患者は月に30人しか来ない。医者は常駐していない)

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