小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

490 「朗読者」人間の無力さと愛の哀しみ

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 ナチスによる戦争犯罪をテーマに、15歳の少年ベルクと36歳の女性ハンナの年齢を超えた愛の姿を描いている。  

 ドイツの作家、ベルンハルト・シュリンクのこの作品は「愛を読む人」という題名で映画化され、日本でも公開になった。この作品の作者のシュリンクは「過去はあらゆる道徳的なテーマや問題をはらむ素材でもある」と述べている。ハンナとベルクの哀しい愛を通じて、私たちに彼はそのことを伝えたかったのだろう。  

 ベルクは黄疸で体調を崩し、路上で嘔吐したところをハンナに介抱され、これがきっかけで2人は恋に落ちる。ハンナはベルクとの逢瀬の度に本を朗読してもらう。それが彼女の楽しみであり、ベルクは忠実にそれを実行する。そこに後半への伏線があることを私はすぐには気付かなかった。2人の恋は、ハンナが突然ベルクの前から姿を消すことで終わりになる。  

 以下、簡単に作品の流れを書く。  

 数年後、大学生になったベルは、ゼミの研究のための法廷で被告人席に座るハンナと再会する。ハンナはユダヤ人を強制収容するアウシュヴィッツの看守だったが、外郭支部の小さな収容所(工場)に転勤した。  

 その収容所での行動が起訴の罪状になったのだ。アウシュヴィッツからは毎月、60人がこの工場に送られ、その逆に工場から60人がアウシュヴィッツ送りになる。その選別はハンナたち看守が担当したというのだ。アウシュヴィッツ送りは死を意味する。

 さらにハンナたちは、収容していた数百人のユダヤ人を別の場所に移動させる。監視の軍人と看守らは移動の途中、ユダヤ人を教会堂に閉じ込め鍵をかけたまま放置する。そこが空襲に遭い、ユダヤ人は全滅状態になる。戦後母親と娘の2人が生き残っていたことが分かり、2人はこの事件の貴重な証言者になる。  

 ユダヤ人に対する2つの罪を問われた元看守の中で、なぜかハンナは積極的に自分の罪を認めるような発言を繰り返す。教会堂事件の報告書も自分が書いたと証言する。しかし、公判を欠かさず傍聴したベルクは、ハンナが文盲であることに気が付く。かつて、逢瀬の度に彼女が本の朗読をせがんだのか納得できた。  

 しかし、裁判長に面会した彼はそのことを話すことなく、ハンナは無期懲役の刑を受ける。服役したハンナのためにベルクは、さまざまな本を朗読した録音テープを刑務所に送り続ける。18年後、ハンナの仮釈放が決まる。物語は、ここで悲劇的結末を迎える。  

 この作品について、ドイツでは第二次世界大戦でのドイツ人の犯罪的行為を無害なものに見せかけているのではないかという非難の声が批評家からあがったと、訳者の松永美穂があとがきで書いている。 「しかし、シュリンクはナチズムとその結果について真剣に考えている政治意識の高い作家であり、ドイツ人の戦争責任を軽減する目的でこの作品を書いているわけではない」「あなたの愛した人が戦争犯罪者だったらどうしますか?という問いかけは国が違い、戦争を知らない世代でも大きなインパクトを持つのではないか」と松永は続ける。  

 日本でも召集されて軍隊に入った多くの民間人が戦犯に問われた。昨年末に上映された映画「私は貝になりたい」は、そうした民間人の悲劇をテーマにしている。「朗読者」を読んで、戦争という国家の巨大な営みにほんろうされた個人の哀しみと人間の無力さをあらためて思い知った。