小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

327 中欧の旅(1) ベルリンの壁はいま

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 ドイツ・ベルリンの壁崩壊を目の当たりにした知人がいる。既に勤務先の報道機関を退職しているが、彼は退職後にベルリンを再訪し、記者としての足跡を振り返った。 壁崩壊は、1989年11月9日のことであり、彼にとって記者としての人生で一番心に残る仕事だったという。

 つい最近、ベルリンの街の一角ベルナウ通りに残る記念の壁を見て、彼が話した壁崩壊時の熱気を思い浮かべた。 第二次大戦は、いまさらいうまでもなく、ドイツと日本とイタリアの3国が英米を中心とする連合国と戦い、多くの犠牲を払って3国の無条件降伏により終わる。

 その後東西に分断されたベルリンには1961年から高さ約3.6メートル、幅約1.2メートルの壁が建設され、長さ155キロに及び、市民の行き来はできなくなった。ベルリンの象徴であるブランデルグ門のすぐ前にも壁があったというから、崩壊までの長い期間、ベルリンの街は異様な圧迫感があったに違いない。

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 壁構築や崩壊に至る経緯はここであらためて記す必要はないだろう。壁が崩壊して間もなく19年を迎える。分断された2つのベルリンが調和の取れた都市に完全復活したかどうかは分からない。戦争、冷戦の跡を記すために残された記念の壁には、戦争を知らない若い世代を中心に観光客が多数訪れていた。

 そこには数多くの資料が展示されていた。 壁の構築という愚かな行為によって、東西ベルリンの市民たちの多くが家族や友人、恋人たちと長い間分断され、悲しみを味わい続けた。壁を乗り越え西ベルリンに逃れようとして射殺された犠牲者も少なくない。だからこそ、壁崩壊は劇的であり、その瞬間を目撃した記者は、歴史の証言者として存分に仕事ができたはずだ。

 ベルリンの分断から時が流れて、知人は西ベルリンに留学し、さらに何年か後に再び特派員としてこの街に赴任した。直後に壁崩壊という激流の中に身を置き、記者としての最高の舞台を与えられたのだった。退職後のベルリン再訪を「センチメンタルジャーニー」と冷やかし気味に見ていたのだが、同じ地に立って、いまは彼のベルリンへの思いの深さが何となく理解できた気がした。

 ヒトラーという狂気の指導者によって、戦争へと突き進んだナチスドイツ。首都・ベルリンにはこの壁のほかにも、第二次大戦の跡を記す記念の建物が残されている。それは広島の原爆ドームと同じく、見る者に戦争の怖さを静かに訴えているようだ。 中心部のカイザーヴィルヘルム記念教会は63メールの廃塔が残され、その無残な姿から、空襲の激しさを思い起こすのだ。夕食の帰り、思わず足を止めて見入った。

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ベルリンの壁は崩壊したが、隣国では韓国と北朝鮮が分断されたまま21世紀に入ってしまった。ベルリンの壁崩壊のように、両国の分断が解消する日もいつかは来るだろう。それがいつかは予測できないが、意外な時期に実現するかもしれないと夢想する。 (9月中旬、中欧各地を旅した。戦争の世紀といわれた20世紀の悲劇の舞台でもあった。ドイツ、チェコオーストリアスロバキアハンガリーの主要都市を見て、感じたことを記してみたい)