小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

311 8月(3) 名記者からの手紙

  友人から、ある新聞記者の話を聞いた。やや長いがその話を紹介する。

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 私の所属する社に長く社会部記者をやり、編集委員になって急性の白血病で亡くなった辻山という先輩記者がいた。若いときに、働きすぎから胃を患って、鶴のようにやせ、ときどき造血剤を射ってもらっていた。いつもだれよりも早く出社し、率先して電話取りをしていたが、いつのころからか、職業病の頸肩腕症候群にかかり、右手首に包帯を巻きながら仕事をしていた。FAXはもちろんメールも発達していない時代の話だ。

  そのころの私といえば、出社は遅く、電話取りも先輩まかせのぐうたらぶりの遊軍記者だった。辻山さんはデスクを兼ね、遊軍の一番古参にもかかわらず、大事件の取材には必ず参加し、社会部の看板でもあった。その情報網は広くて深く、時には大変な情報が入ってくる。

  私が絡んだ薬品メーカーの臨床データ捏造事件も辻山さんの情報が発端だった。自民党が総裁選びで49日にも及ぶ抗争を続け、その最終局面で話し合いが徹夜になる事態になり、社会部も総力を挙げて取材した。私は中曽根康弘氏の担当となり、完全徹夜で仕事をした。

  仕事が一段落して社に戻ると、デスク勤務をしていた辻山さんから声を掛けられた。それは薬品メーカーによる前代未聞の事件の情報だった。私が厚生省担当OBということで取材を指示したのだった。デスクに入ってはいても彼は自分の専門分野で取材を続けていた。だが、薬の分野はさすがに苦手だったのか、私に取材してくれないかと頼んだのだ。

  人命を守るはずの薬品メーカーが製造認可を受けるために、臨床試験をやらずに、大学の医者に大金を渡してにニセ論文を作らせ、認可を受けるという衝撃的な事件だった。最終的にこの情報は正確で2人の同僚の協力もあって、この事件は特ダネとなり、社会的にも大きな反響を呼んだ。その後、辻山さんは編集委員となり、私も2度目の警視庁担当や地方のデスクに出たりして、一緒に仕事をする機会はなかった。

  辻山さんが体調を壊して、入院したのは連続女児誘拐殺人事件の宮崎勤が逮捕されたころだ。そして、1ヵ月ほどして急死した。地方勤務から社会部に戻り、この事件を担当していた私は辻山さんの葬式に参列できなかった。辻山さんに申し訳ないと思いつつ、時間が過ぎた。

  それからしばらくして、私は編集委員になり、与えられた机を整理したいたら、辻山さんの手紙が出てきたのである。それは、病が小康状態になり、一時外出を許されたときに社に顔を出し、会えなかった社会部の仲間にお見舞いのお礼を丁重にしたためたものだった。だれかに託すつもりで机にしまったのだろう。特徴のある縦長の字であり、最後に「手がけていた取材を中断したのは悔しい。早く病気を治し、復帰してペンを握りたい」と書いてあった。

  社に姿を見せてから、1週間後、辻山さんは亡くなった。私は彼の手紙をそのまま机の中に仕舞い込んだ。その後編集委員を離れるとき、後任者には何も言わずに机を譲った。辻山さんが最後に活躍した部屋で、この手紙が長く受け継がれることを念じたからだ。

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 友人によると、辻山さんは命を削るようにひた向きな記者生活を送ったという。上杉隆著「ジャーナリズムの崩壊」(幻冬社新書)を読んだ。日本の新聞記者の実態を上杉は「権力と癒着し、官僚よりも官僚的」と書いている。辻山さんのような記者は少なくなったのだろうか。