小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1664 品格ある麦秋風景だ 日暮れを忘れるころ

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 間もなく麦の穂が実り、収穫するころをいう「麦秋」を迎える。七十二候では小満麦秋至」(新暦で5月31日~6月4日ごろ)だ。私の家の周辺で麦畑を見るのは困難だが、同じ千葉市内の知人の自宅近くには農家があって麦を栽培しているという。収穫期を迎え、黄色く色づいた麦畑は、私の子どものころに親しんだ風景でもあった。  
 
 先日、正岡子規を愛好する人たちが集まった句会があった。兼題の一つとして「麦秋、麦の秋」が出された。私は「麦秋や美瑛の丘にゴッホ来る」という句を提出した。この句について、主宰者は「大胆な惜辞(そじ・詩歌や文章などの言葉の使い方や句の配置の仕方)が買われた(評価された)とみます」と評した。私は麦秋といえば、この句のようにゴッホの絵と北海道美瑛の風景を頭に浮かべる。  
 
 麦畑をテーマにしたゴッホの絵はよく知られている。「カラスのいる麦畑」「嵐の空の下の麦畑」「黄色い麦畑と糸杉」「緑の麦畑と糸杉」そして「ラ・クローの収穫」などだ。このうち「ラ・クローの収穫」は郷愁を感じさせる作品で、私の好きな絵の1枚に入る。パリからアルル(南フランス)に移り住んだゴッホは、遠くに青い山々を望み、見渡す限りに続く黄金色の麦秋の田園風景をくっきりと鮮やかに描いた。生涯、精神の不安定さに悩まされたといわれるゴッホだが、この絵からは作者自身の心が安定していたことを思わせる静謐さが漂っている。  
 
 一方「美瑛」は、私が初めて北海道に住んだ1990年当時、全国的にはそう知られていなかった。富良野とともに美瑛の美しい風景を世に知らせたのは、写真家の前田真三だった。東京で写真事務所を設立した前田は1971年、日本縦断撮影旅行で富良野と美瑛に入り、その自然に心酔する。その後、1987年に美瑛町に「拓真館」というフォトギャラリーを開設する。富良野と美瑛の丘の風景は、前田の写真を通じて次第に知られるようになり、現在は北海道有数の観光地になっている。
 
 ノーベル賞作家、カズオ・イシグロは『日の名残り』(土屋政雄訳・中央公論社)の中で、イギリス国内を旅する主人公が丘の上から見た、うねりながらどこまでも続く田園風景について触れている。 「私はあえて、多少の自信をもって申し上げたいと存じます。今朝のように、イギリスの風景がその最良の装いで立ち現れてくるとき、そこには、外国の風景が――たとえ表面的にどれほどドラマチックであろうとも――決してもちえない品格がある。そしてその品格が、見る者に非常に深い満足感を与えるのだ、と」  
 
 この本を読んだ直後に美瑛に入った私は、丘の風景に品格を感じ、その美しさに声も出なかった。季節はちょうど麦秋のころだった。 「夕べまだ子供のあそぶ麦の秋」(脇村禎徳)。麦秋のころは日照時間が長くなって、夕方になってもまだ明るいから子どもたちは戸外で遊び続けている。そんな光景が目に浮かぶ句だ。
 
 私が小学生のころ、学校への登下校の道の両側は麦畑が広がっていた。学校から帰ると、私も長い時間外で遊んでいた。何をしていたのか覚えていないが、遊びに夢中になって日が暮れるのを忘れていたのかもしれない。麦秋は、私にとって郷愁を呼ぶ言葉なのである。
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写真1、麦秋直前の美瑛の丘の風景 2、ゴッホの「ラ・クローの収穫」(ゴッホ画集より)