小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1187 時の鐘に惹かれて 小江戸川越の七福神めぐり

画像日本各地には「七福神」を祀る寺社が少なくない。小江戸と呼ばれるかつての城下町、埼玉県川越市に「小江戸川越七福神」があるというので、過日、運動を兼ねて7つの寺を巡った。 七福神は福をもたらす7柱のめでたい神様のことだが、室町時代末期に始まった7つの神様に対する信仰が、現在のように定着したのは江戸時代だという。この七福神めぐりでは東武東上線川越駅前からコースを案内するシニアガイドがついた。70歳を超えたと思われるガイドは、ユーモアを交えながら丁寧に各寺の神様を解説してくれた。その該博な知識に感心しながら寒さに何とか耐え、全コース6キロを3時間以内に回り終えた。 徳川家康の側近といわれ、喜多院の住職も務めた僧侶の天海は、川越の七福神について 第1番・毘沙門天―威光(妙善寺) 第2番・寿老人―寿命、(天然寺) 第3番・大黒天―有福、(喜多院) 第4番・恵比須天―清廉(成田山) 第5番・福禄寿神―人望(蓮馨寺) 第6番・布袋尊―大量=すべてを受け入れる(見立寺) 第7番・弁財天―愛敬(妙昌寺) と、述べたという。 今回の七福神めぐりでは6番と7番が入れ替わり、最後になったのが見立寺の布袋尊だった。このお寺のすぐ近くに菓子屋横丁や時の鐘といった名所があり、解散後の利便を考えて、順番を変えたようだ。7つを回ったことを示す時の鐘の図柄の「ご朱印」もこの寺で販売(1000円)していた。 ガイドは赤いブレザーを着て白い帽子に七福神の折り紙をつけている。川越シルバー人材センター観光案内班に属し、川越のことは何でも知っている。コースの途中で、空き家になっている家の玄関先にある植木のことを「これは払邪(じゃばら)といって、和歌山原産のこの辺では珍しいミカンの種類です」と説明し、とあるマンションでは「ここは映画館でした。最後はストリップショーをやっていて、よく通いました」と笑わせた。古くて朽ち果てそうな建物の前では「ここも昔は映画館でよく通ってきました。私の若いころは川越には映画館が7つもあったのです」などと、しばしば川越の往時を振り返った。 七福神と関係はないが、途中トイレを借りた光西寺についてはこんなふうに話してくれた。「浜田藩島根県浜田市)の菩提寺として建立され、藩が棚倉(福島県)に移ると一緒に行き、さらに維新の直前には藩主の松平康英(同名の長崎奉行とは別人)とともに川越に代わったのです。康英は老中を務め、藩校の長善館を開いた英明な人物といわれています」。 もちろん七福神と寺の解説も詳しい。福禄寿の蓮馨寺では、参道わきにある銅板葺きの手水舎に案内し、「欄間の彫刻(川越出身の彫刻家・橋本次郎氏作)の龍頭は一刀彫で制作された素晴らしい作品です」と語り、布袋尊の見立寺では「唯一実在した神様(中国)で、太鼓腹が人気です。私に似ているでしょう?」と腹をたたいて見せた。コース1番にあたる毘沙門天の妙善寺境内には川越らしく(江戸時代中期の蘭学者儒学者青木昆陽が関東での栽培法を確立したといわれ、その後川越でサツマイモの栽培が盛んになったという)サツマイモを抱くお地蔵様があり、焼き芋も売っていて、女性たちが列をつくっていた。 天海大僧正が話した各神の特徴を現代日本の世相に合わせて考えると、すべての神様からご利益があるよう願いたくなる。それはそれとして、厳しい冷え込みに耐えながらこれだけ歩いたのだから、健康面で何らかのプラス効果はあったのではないか。 七福の神巡り終え時の鐘 写真 1、 七福神ご朱印 2、 毘沙門天(妙善寺) 3、 寿老人(天然寺) 4、 大黒天―(喜多院) 5、 恵比須天(成田山) 6、 布袋尊(見立寺) 7、 弁財天(妙昌寺) 8、 川越駅の風景 9、 妙善寺では焼き芋の販売が 10, 妙善寺へ向かう武者姿の一行 画像画像画像画像画像画像画像画像画像画像