小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

958 植物を潤す穀雨 無残に折られたチューリップ

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知人から「きょうは穀雨ですね」というメールが届いた。広辞苑によれば24節気の1つで「春雨が降って百穀を潤す意」とある。新聞のコラムを読んでいたら、何紙かが穀雨に触れていた。 例年に比べ冬の寒さが長引き、春は足踏み状態が続いた。桜の開花も1週間遅く、穀雨のきょうも肌寒い一日だった。気温が低いのは植物にも影響し、庭や遊歩道のチューリップも花期が長く、その意味では花の季節を楽しんでいる人が多いのかもしれない。 先日、兵庫県の棚田を訪れた。春浅い棚田は刈り取られた稲の株が残っているだけで、風になびく緑の苗や実りの秋の黄金色の水田の美しさは想像できない。そうした寂しい棚田だが、周囲に植えられたミツマタの花は満開だった。この木の皮が和紙の材料になるため、農家の人が植えたのだそうだ。この花が散ると、棚田は掘り起こされ、水が通されて活動の時期に入る。 そんな光景がこれから日本列島各地で見られるようになる。日本人ならだれでも、心が和む季節がやってくるのだ。朝日の天声人語穀雨について「草木は甘雨に煙り、稲作農家は苗づくりや田おこしに励む。この時期のお湿りは万物生(ばんぶつしょう)の異名通り、生きとし生けるものに精気を満たしてくれる」と書いている。 そうありたいと思う。しかし、原発事故の福島や被災地の人々はそうした精気を満たすことができるのだろうかと思う。 花粉症の人を除いて、1年の中でこの季節を好きという人は多いのではないか。紅葉の季節もいいが、植物が芽ぶき、花が開く春は自然の美しさが際立っている。 そんな季節に残念なことがあった。自宅の前の遊歩道わきに植えた約30本のチューリップの赤い花が満開になり、道行く人たちを楽しませていると思っていた。数日前その花の何本か折られ、さらにきょうもかなりの花が折られてしまった。 昔から「花盗人」という言葉があるように、人には美しい花を独占しようとする心があるのかもしれない。それにしても、花を折られたチューリップは無残である。花を折った人物は、そんな光景を見ながら現場を通ることに心が痛まないのかと思う。