小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1606 人の心を打つ言葉 カズオ・イシグロとサーロー節子さん

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「自分の目、耳、肌、心でつかまえたものを、借りものではない自分の言葉でわかりやすく人に伝えること」。6日に老衰のため87歳で亡くなった元朝日新聞天声人語担当のジャーナリスト、辰野和男さんの著書『文章のみがき方』(岩波新書)の中に、先輩記者から新聞の文章についてこんなことを言われたことが書かれている。これが人の心を打つ達意の文章の基本なのだ。  

 この言葉は、辰野の先輩記者で交通問題、都市問題の専門記者だった岡並木が辰野と文章について話し合っているときに語ったのだという。辰野は書いている。「現場へゆく。現場の様子を見、人の話を聞き、五感で得たものを大事にし、それを白紙の心にしみこませ、借りものでない自分の言葉で表現する。そういう一歩一歩の修業を積み重ねてゆく。そのことの大切さを岡は力説していました」  

 この言葉を実践したのは、今年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロさんではないか。日本時間10日夕にストックホルム市庁舎で開かれた晩さん会のスピーチを新聞で読んでそう思った。イシグロさんは、スピーチでノーベル賞を絵本で知った5歳のときの思い出から語り始め、母親が「ノーベル賞は平和を促進するためにあるのよ」と教えてくれたことを明かした。  

 そして、母親が長崎で被爆したというイシグロさんは「私の街、長崎が原爆によって壊滅的な被害を受けてから14年しかたっておらず、まだ年端もいかない私でも平和は大切なものであること、それがなければ恐ろしいものがこの世界を襲うかもしれないことを分かっていた」と語った。イシグロさんはさらに「共同体が分裂して敵対する時代にあって、その壁を越えてものを考えられるよう助けてくれ、人間として共に闘わねばならないことは何かを思い出させてくれる賞だ」とも話した。  

 また、ノーベル平和賞を受賞した国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)の受賞講演で被爆者の一人、サーロー節子さんは「核兵器は必要悪ではなく絶対悪」と述べている。この講演で節子さんは被爆体験を詳細に語ったが、その一節が強く心に残った。壊れた建物の下で身動きできなくなった節子さんに対し、呼びかける声が聞こえたというくだりである。

「あきらめるな!(がれき)を押し続けろ!蹴り続けろ!あなたを助けてあげるから。あの隙間から光が入ってくるのが見えるだろう?そこに向かって、なるべく早く、はって行きなさい」。新聞には「あきらめるな 光に向かってはって行け」という見出しがついていた。まさに、自分の言葉で、極限の状況を伝えたものといっていい。この言葉があったから、節子さんは生きる力を振り絞り、燃え落ちる直前の建物から脱出したのだ。

 一方政界でも、今年は言葉に関して注目すべき動きがあった。安倍政権は、森友・加計学園問題で支持率が急落すると、急に「丁寧に説明する努力を積み重ねたい」と低姿勢に転じたのだ。しかし、実際にはそれが上辺をつくろっただけで、国会演説・答弁はこの言葉とは縁遠いものであることは各種の世論調査で「説明責任が果たされていない」という答えが多数を占めていることでも明らかだ。イシグロや節子さんに比べると、政治家の言葉は軽く、聴く者の心に響いて来ないのだ。

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1593 病床の不思議な夢 カズオ・イシグロのノーベル文学賞