小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1518 中国の旅(5) いまは?のアカシアの大連

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 中国の旅に、私は何冊かの本を持って行った。その中に清岡卓行著『アカシヤの大連』も入っている。大連で生まれ育った清岡の自伝的小説ともいえる作品で、アカシアが香る美しい街としての大連が描かれている。32年前、初めてこの街に足を延ばしたときには、この作品の記述を裏付けるような、美しさが残っていた。だが、いまその面影はない。

 私は今度でこの街に来たのは4回目になる。大連が「経済技術開発区」に指定され年の1984年とその数年後、そして2008年と今回だ。初めてやってきたときに泊まったホテルは南山賓館(清岡の作品にも出てくる)といい、かつて日本人の別荘として使われた一軒家をホテルに改造して利用していた。

 その数年後にはこれはなくなり、同じ名前の高層ホテルができていた。 2008年の3回目で、私はここが本当に大連かと驚いた。目抜き通りには摩天楼といっていい超高層ビルが林立し道路は車で埋め尽くされていたからだ。中国の経済発展及び経済技術開発区指定はこれほどまでに影響を及ぼしたのだ。

 それは、かつてこの街に住んだ清岡ら日本人の郷愁を断ち切ってしまうほどの変貌ぶりといっていい。 アカシアの大連という言葉には、郷愁が込められている。だが、この街に住む人たちが過去を懐かしんでいるのかどうかは、私には分からない。

 現実に街を歩くとアカシア(実際に街路樹としてあるのはニセアカシア)の木は少なくなり、プラタナス(スズカケ)が目につく。以前、現地の人に「アカシアは公害に弱く枯れてしまうことが多いので、プラタナスを代わりに植えている」と聞いたことがある。

 街の緑を守るには、そうした苦肉の策も必要なのだろう。だから今、アカシアの大連という言葉は、あまりそぐわないと、私は思う。 たまたま手元にある戦前の大連大広場(現在の中山広場)と現在の広場の写真を見比べている。大広場前で目立つのは横浜正金銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)大連支店(現在は中国銀行遼寧省分行)のルネサンス風の建物くらいだ。

 ところが、現在、広場の周囲には超高層ビルが立ち並び、銀行の真後ろにも巨大なビルがあり、情緒を感じることはできない。他の都市と同様埃っぽい街にある友人は「大連の魅力は以前より半減した」と話しているが、それが近代化なのだろうか。 戦前の広場には関東都督府の初代都督、大島義昌大将の立像があり、手元の写真にも写っている。当然、それは撤去され、現在は広場中央に毛沢東の巨大な銅像が立っている。

 中国では文革中、毛沢東像が各地にできたが、現在はだいぶ少なくなったと聞く。しかし、ここではまだ残っていた。 この本で清岡は、海岸部の老虎灘の丘を歩いていて「泣きたいほど青い空を、久しぶりに私は見た」と、書いている。

「冬枯れて落葉した林の上に、どこまでも澄む明るい青を仰いだときのことである。白く淡いちぎれ雲を3つほど浮かべたその空の懐かしい美しさが、心の底、体の底まで、なにに遮られることもなく沁みとおってきた。私の郷愁はこのときはじめて深く満たされた」という清岡。

 その青い空は大連滞在中、見ることはできなかった。大連に青い空はいつ戻るのだろう。 (次回は(6)若き知日派たち)

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