小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1508 この世は美しく甘美な人の命 お盆に思う

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 日が暮れて草のにほひの盆の寺 今井杏太郎

 お盆である。昨日夕、家族で墓参りをした。寿陵(生前墓)であるわが家の墓にはお骨は入っていない。 私は東北出身で生家に墓はある。だが、将来のことを考えると、住まいの近くに墓があった方がいいだろうと数年前に寿陵を建てた。だからわが家の墓の横には赤い文字で私たち夫婦の名前が刻まれている。墓に行くと墓苑全体を覆うように線香の香りが強く漂い、草の匂いは感じられない。  

 そして、きょう、酷暑は一休み。エアコンを使わず窓を開けていると、隣の家から僧侶が経を読む声が聞こえてきた。隣家には私の家に面した和室に仏壇があるそうだ。燐家では坊さんを呼んで、先祖のために経をあげてもらったのだろう。それが漏れ聞こえたらしいのだ。  

 盆、すなわち盂蘭盆会について、『俳句歳時記』(角川学芸出版)では以下のように記している。

《7月13~16日に行われる仏事。灯籠を吊り、精霊棚をしつらえ真菰を敷き、野菜などを供え、祖先の霊を弔うため僧侶を招いて経をあげてもらう。昔は旧暦で行われたが、東京では主として新暦で行うことが多い。旧暦で行う所、月遅れの新暦8月13日から行う所などもあり、一定していない》  

 高齢化社会核家族化時代が行き着く所まで来てしまった今日。墓をどうするかという話題を時々聞く。先日も墓をどうすべきか迷っているという知人の話を聞いた。山口県萩市出身の知人は長男だ。家にはもちろん、墓がある。だが、就職して以来首都圏に住み、故郷に戻ることはもう考えていない。  

 その墓には両親をはじめ先祖が眠っているが、墓参りは年1度行ければいい方だという。だから、自分たち夫婦がこの墓に入ったら、子どもたちはほとんど墓参に来ることはないだろう、子どもは2人とも女の子で、既に結婚しているから、新しく墓をつくっても負担をかけるだけだと思う。そんなこともあって、この問題は先送りを続けているというのである。知人がどんな選択をするか、いつか聞いてみたい。  

 宗教は心の拠り所である。だが、宗教の信仰で人は激しい争いを続ける。そんなとき、私は釈迦の言葉を反芻する。

《この世は美しい。人の命は甘美なものだ》  

 この言葉について、作家で仏教家の瀬戸内寂聴は「私がお釈迦さまの残された多くの尊いことばの中でも、このことばが、天来の音楽のようにかぎりなく美しく聞こえてきます」と書いている(仏教新発見30『萬福寺』)。

 明日は終戦の日。平和で美しいこの世を取り戻したいと思う。