小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

988 幸徳秋水と建長寺の天井画の画家と 四万十・中村にて

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 清流で知られる四万十川がある高知県四万十市は、平成の大合併中村市と隣接の西土佐村が合併して誕生した。その中心部に近いホテルに泊まった。すぐ裏手の高知地検中村支部・中村区検の隣に大逆事件で刑死した中村出身の思想家、幸徳秋水(本名、伝次郎)の墓があった。

 正福寺の墓地の一角にある墓は「幸徳秋水墓」と達筆で書かれていた。ホテルに戻って、地元の高知新聞を見ていたら、墓の字を書いた人物のことを作家の瀬戸内寂聴さんが書いていた。 秋水の墓は、区検横の細い小路を入ったところにあり、案内の掲示がなければ気がつかないほど、小さなものだった。大逆事件で非業の死を遂げた秋水。故郷の墓に眠る秋水は、現代の政治家たちをどのように見ているのだろうか。

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 瀬戸内さんのエッセーは「灯点」(ひ ともし)という題で、画家・陶芸家の小泉淳作氏の「我の名はシイラカンス三億年を生きるものなり」という本のことを書いている。それによると、小泉氏は小泉三申(さんしん=俳号、本名は策太郎)という明治から昭和初期の政治家の子息で、策太郎は、新聞記者、新聞社経営などを経て政治家となり、幸徳秋水とは思想は違っても彼の死後、親友として遺族の面倒も見、墓の字も書いたのだそうだ。 

 秋水こと伝次郎と策太郎は、板垣退助が社長だった自由新聞の記者時代(策太郎が23歳、伝次郎24歳)に意気投合し、以来親交を結んだ。淳作氏の本には、大逆事件の直前に、三申が秋水の身を案じて、自分の定宿である湯河原の「天野屋」へ秋水と管野須賀子を逗留させたがことや、この宿も警察の知るところとなり秋水はここで捕まったこと、三申の妻が、夫に累が及ぶのを恐れて、秋水から来た行李一杯の手紙をすべて焼き捨ててしまった―ことなども記されている。

 瀬戸内さんは、淳作氏について「人まねはしない、あくまで自分流の絵を描き通した希代の画家にお目にかかりたいと申し込んだ直後、21012年1月9日、亡くなってしまわれた。享年87。東大寺(奈良)で作者を知らずいきなり拝見し息をのんだ桜の絵の豪華さが、目の中一杯に広がってくる」と書いている。

 特定の画壇に属さず、わが道を歩き通した淳作氏は、東大寺の襖絵のほか、建長寺(鎌倉)、建仁寺(京都)の天井画の作者でもある。サザエさんのマスオさん役を演じた往年の青春スター、小泉博は淳作氏の弟だ。

 四万十市にまで足を延ばした。かつてうなぎを食べた土佐くろしお鉄道中村駅前にあった頑固おやじのうなぎ屋は、店が閉まっていた。タクシーの運転手に聞いてみると、四万十川の天然うなぎが手に入らなくなって、最近閉店したのだそうだ。四万十川にも変化があったのだろうか。そういえば、街の人に聞くと、大きなうなぎ屋でも養殖を使っているみたいだという答えが返ってきた。

 米国が野生生物の保護を目的としたワシントン条約によって、うなぎの取引規制を検討しているという記事が17日の朝日新聞朝刊に出ていた。不漁による価格高騰、規制によって、うなぎは高級魚になろうとしているようだ。