小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1415 尺八の音を聞き歩く秋日和  千鳥ヶ淵の光景

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 昨日、東京の街をぶらぶらと歩いた。最高気温は17・4度。日陰に入るとやや肌寒いが、歩くには爽快な一日だった。千鳥ヶ淵戦没者墓苑付近を通りかかると「仰げば尊し」のメロディが流れてきた。近づいてみると、60歳は超えたと思われる男性が尺八を吹いていた。

 太平洋戦争で亡くなり、身元の分からない遺骨が安置されている戦没者墓苑とこの曲が似合うかどうかは人それぞれの感想があるだろう。私は、ふと足を止めた。 1番の歌い出しが「あおげば とうとし わが師の恩」という歌である。卒業式の定番といわれた曲だが、昨今あまり歌われなくなった。その理由はなぜなのか。

「自分がこの歌を好きかというと、どうもそうではないような気がします。コンセプト全般、特に詩の内容は、私だけでなく、若い世代の多くが首を傾げてしまう種類のものでしょう」と、米良美一は自身が編集した『にほんのうた300、やすらぎの世界』(講談社+α文庫、1997年)で指摘している。 米良の意見に代表されるように、詩の分かりにくいさや2番の「身を立て名をあげ」の部分が立身出世を想起させることもあって、教育の世界から遠ざけられたようだ。

 この曲は明治17年(1884)から小学唱歌集として歌われ出し、詩の内容からいつしか卒業式の歌に定着した。私も卒業式で歌った記憶がある。以前は作詞、作曲者は未詳とされていたが、最近になって桜井雅人・一橋大名誉教授によってこの曲が1871年にアメリカで出版された歌曲集の1つで、卒業の歌だったことが分かったという(桜井雅人・へルマン=ゴチェフスキ・安田寛共著「仰げば尊し――幻の原曲発見と『小学唱歌集』全軌跡」、東京堂出版)。

 尺八の人は、この曲に続いて、「更け行く 秋の夜(よ) 旅の空の」という歌い出しの「旅愁」(犬童球渓作詞、オードウェイ作曲)を吹いていた。まさに秋の歌である。多くの戦没者は故郷から遠く離れた戦場で、この詩にあるように「恋しやふるさと なつかし父母 夢路にたどるは 故郷(さと)の家路」―と思いながらこの世を去ったのかもしれない。

 墓苑の六角堂には献花台があった。墓苑には孫のような若い男女に連れられた、戦争を体験した世代と思われる高齢者もいた。若い外国人男性が献花台の前で献花をする人たちを長い間観察する姿もあった。私が菊の花を献花している間中も尺八の音は続いていた。それは、戦没者への鎮魂の思いを込めた音色のようにも聞こえた。

 六角堂という名前の寺は京都にある。いけばなの発祥の地で聖徳太子が建立したといわれる紫雲山頂法寺(京都市中京区)だ。人間には6つの感覚、眼・耳・鼻・舌・身・意=6根があって、煩悩も生じる。そうした心の角をとるために六角形の角と角とをつなぎ合わせた六角堂をつくり、穏やかに送ることを願ったのだそうだ。

 明治から昭和にかけて日本の古社寺の調査をした漆工芸家の六角紫水は、元々は藤岡仲太郎(その後注多良に)という名前だった。それを六角に変えたのは、こうした文化財のいわれを元にしたのかもしれない。千鳥ヶ淵墓苑の六角堂の由来は不明だが、私は同じような考え方でこの名前を付けたのではないかと思うのだ。

 ちなみに茨城県北茨城市の海岸近くにある「観瀾亭」という赤い六角形の堂も通称六角堂と呼ばれている。六角紫水の盟友で、明治の代表的美術家・思想家の岡倉天心の設計によるものだ。2011年の東日本大震災津波で流失したが、翌2012年4月に再建されたという。機会があれば訪ねてみたい建物だ。

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写真 1、千鳥ヶ淵戦没者墓苑の六角堂 2、歩道橋の階段に咲く野の花

1222 さまざまの事おもひ出す桜かな 東京を歩いて

1349 桜絶景 花散る道を歩く