小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1783 岡倉天心が愛した五浦 六角堂を訪ねる

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「人は己を美しくして初めて、美に近づく権利が生まれる」 日本近代美術の先駆者、岡倉天心(本名、覚三、1863~1913)が、『茶の本』(岩波文庫)の中で、芸術表現について明かした一節の中にこんな言葉がある。天心は晩年、太平洋を臨む福島県境の茨城県大津町五浦(いづら、現在の北茨城市大津町五浦)に居を構え、美術史家、美術評論家として日本の美術運動をけん引した。初めて五浦に行き、天心ゆかりの風景を見ながら、冒頭の言葉の意味を考えた。  

 五浦は大小の入り江や断崖が続く景勝地で、現在天心の旧宅(当時の半分規模)と観瀾亭(かんらんてい、大波を見る東屋の意味)と呼ばれる六角堂が茨城大学五浦美術文化研究所によって運営されている。少し離れた場所に茨城県天心記念五浦美術館がある。このうち六角堂は天心の設計で1903(明治36)年に建てられ、茶室を兼ね備えた朱塗りの外壁と屋根が宝珠を装った六角形である。太平洋を見下ろす崖すれすれの場所にある小さな建物だ。  

 六角形の東屋は、中国文人庭園では岩(太湖石)を見るためのものだが、天心は大波を見るイメージで建てたといわれる。室内は茶室となっていて、日本と中国が融合したユニークな建物といえる。すぐ下が海になっていて、2011年3月11日の東日本大震災によりこの建物は津波によって流失してしまったが、翌年に茨城大や北茨城市によって復元されている。天心自身、後年に津波がここまで押し寄せるとは考えもしなかっただろう。  

 天心は東京開成学校(東大の前身)時代、アメリカ人教師のアーネスト・フェノロサに師事、古美術への目も開かれる。私は以前、天心に傾倒した漆芸家、六角紫水について調べたことがあり、日本の古美術の再評価に力を尽くした天心の大きな存在を知った。天心は『茶の本』で茶道の本質に踏み込んでいるのだが、冒頭の言葉は茶道だけでなく芸術全般に言えることではないかと思うのだ。それにしても、現代は美しくないことが多すぎる。  

 大津と聞いて、ほとんどの人は滋賀県の県庁所在地の大津市を思い浮かべるだろう。ただ、私の場合、遠縁の人がいるため、その名前は聞いていた。実際に茨城最北部(隣は福島県いわき市勿来)のこの街にやってきて、あらためて親近感を抱いた。この街も3・11で津波が押し寄せ、6人が犠牲(5人が死亡、1人が行方不明)になった。遠縁の家も庭まで海水がきたという。いま、この街は8年前の大震災がうそのように、静かなたたずまいを見せている。天心が愛した五浦の風景。私もこの風景とともに、冒頭の言葉を記憶にとどめたい。  

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  写真  1、断崖に建つ六角堂  2、六角堂前の岩に石の祠が  3、天心美術館入り口の天心肖像レリーフ  4、六角堂から見五浦の風景    

1415 尺八の音を聞き歩く秋日和  千鳥ヶ淵の光景  

1499 古代ハス咲く白水阿弥陀堂  平泉ゆかりの国宝建築物  

1620 だれもが人類という大きな木の一部 ルーツについて