小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1403 きょうは子規のへちま忌 「言葉はこの世の屑」なのか

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 正岡子規は1902年(明治35)9月19日に闘病の末、34歳で亡くなった。113年前のきょうのことだ。糸瓜忌である。子規の死を知った親友、夏目漱石の句と子規最後の句は9月1日のブログで紹介した。明日20日は彼岸の入り、子規の句集を読み直した。

 子規の句に「一日は何をしたやら秋の暮れ」がある。子規にとって、それはどんな秋の一日だったのだろう。 「秋の日はつるべ落とし、それにしてもきょう一日、いったい何をしていたんだろう。いいねえ、こんな一日も。」(正岡子規著、天野祐吉編『笑う子規』ちくま文庫)天野の解釈だ。

 少しだけ残暑がぶり返したきょう。こうした、いかにものんびりとした思いで一日を送ることができた人は少ないのではないか。日本の将来に暗雲が湧くことを予感する集団的自衛権行使を認める法案が国会で成立したからである。

「詩人が何よりもましてひどく苦しめられている欠陥物で、この世の屑ともいうべきものは、言葉である」

「自分がもっている以上のものを人に見せる者がペテン師であるとするならば、詩人というものは決してペテン師にはなりえない。なにしろ詩人は、自分が見せたいと思うものの十分の一、百分の一でさえも見せることができず、自分の言葉を聞く者が自分の言ったことのほんの表面だけでも、それに近い意味だけでも、ほんのおおよそだけでも理解し、少なくとも最も重要なところでひどい誤解さえしなければ、もう満足せざるをえないからである」

 ドイツ生まれの詩人、作家のヘルマン・ヘッセは「言葉」と題したエッセーの中で、言葉について、こんなふうに書いている。この文章からは、言葉と格闘している詩人としてのヘッセの謙虚な姿勢が読み取ることができる。

 政治の世界も言葉は重要であり、生命線といっていい。しかし、今国会で繰り広げられた安保法制をめぐる質疑で、答弁する首相の言葉も防衛相の言葉もあまりにも軽かった。その姿からは、国民から信頼される重厚さは全く感じられなかった。真剣に、懸命に言葉を選び、疑問を解消させようする姿勢はなかった。

「理性のある動物、人間とは、まことに都合のいいものである。したいと思うことなら、何にだって理由を見つけることも、理窟をつけることもできるのだから」(フランクリン自伝)アメリカの独立宣言の起草委員として知られる政治家で物理学者のベンジャミン・フランクリンは、こんな言葉を残している。

 ここ数日の国会の姿を見ていて、残念ながら日本の政界は、18世紀に生きたフランクリンの時代とそう変わっていないと思わざるを得なかった。私にとって2015年9月19日は、重苦しくて長い一日だった。

1396 子規の9月 トチノミ落ちて秋を知る

626 言葉の重さ 北村薫と政治家と

 写真は、長崎県五島市の大瀬崎灯台。(記事とは関係ありません。政界にも灯台のような存在が必要と考えるこのごろです)