小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1300 いわし雲の季節に 子規去り112年

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 俳人正岡子規が亡くなったのは明治35年(1902)9月19日だった。既に112年が過ぎている。秋の彼岸入りのころで、秋真っ只中のこの世との別れだったといえる。朝、空を見上げたら、鰯雲(いわしぐも)が浮かんでいた。

 この雲の正式名称は巻積雲(けんせきうん)だが、鰯雲のほか鱗雲(うろこぐも)、鯖雲(さばぐも)とも呼ばれる秋の空を象徴する雲である。 俳句歳時記(角川学芸出版)の「鰯雲」の項には、10句が載っている。そのうちの「鰯雲記憶は母にはじまれり」(伊藤通明)という句に心ひかれた。

 人の記憶には個人差があるだろう。 作家の三島由紀夫は『仮面の告白』の中で、産湯のときを覚えていると書いたが、伊藤のこの句からは、様々なことを想像することができる。詩人の清水哲男は、鰯雲のことを「郷愁に誘われる雲だ」(増殖する俳句歳時記)と表現している。そして、郷愁の先にあるのは幼少期まで遡るが、伊藤の場合は母の記憶が始まりだというのである。伊藤は母の姿をどんなふうに記憶しているのだろう。

 夏の猛暑がうそのように、9月になって涼しくなった。いまの季節はこんな句が合う。『雲のみか秋天遠きものばかり』(斎藤空華)である。山本健吉は「澄みとおった秋の空。雲も、山も、鳥も、思いも、すべて遥かかなたにある」(句歌歳時記 秋・新潮社)と解説した。近くの墓地では彼岸の線香の煙がたなびいている。

 昨年7月に死んだ飼い犬・ゴールデンレトリーバーのhanaの話を8月4日から40回にわたって再掲載した。hanaとの思い出は尽きないが、hana物語は40回で完結した。我が家の庭には2本の金木犀と1本の銀木犀がある。hanaの遺骨が眠っているのは、このうち居間からよく見える金木犀の近くである。銀木犀は最近開花し、金木犀も間もなく咲くはずだ。「うつくしき世をとりもどすうろこ雲」(鷹羽狩行)

「砂の如き雲流れ行く朝の秋」(正岡子規

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