小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1196 あるジャーナリストの憂鬱な日々 「こんな人がNHKに」

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 仙台在住のジャーナリスト・松舘忠樹さん(元NHK記者)は、東日本大震災後の2011年12月から被災地の復興の動きを「震災in仙台」と題し、ブログで書き続けている。地道に、丹念に取材したブログは被災地と被災者の姿を追った貴重な記録となっている。そのブログで、松舘さんが怒りの声を上げている。

 古巣のNHK会長に就任した籾井勝人氏の従軍慰安婦をめぐる発言のことである。民放や新聞の報道で籾井氏の発言を知り、あきれたものだが、その思いを松舘さんのブログは代弁してくれた。改めてここに再掲する。

 《このところ、頭の上からふたをされたような憂鬱な気分が続いている。年明け早々風邪をひいたが、なかなか抜けない。しかしそれではない。古巣のNHKの新会長のことである。週明けの27日夜、テレビ朝日報道ステーション籾井勝人新会長の就任会見の全貌をはじめて聞いた。おひざ元のNHKは詳しく伝えなかったからだ。

  発言内容はとても信じられないものだった。なぜ、こんな人物が言論機関のトップに?あきれる思いを通り越して、怒りを覚えた。その前に、この人物の物言いである。時に質問の記者をさえぎって、早口で言いたてる姿。ジャーナリズムの世界で数十年生きてきたが、これまで出会ったことのない姿だった。明らかにこの人は言論の世界の人物ではない。言論人とは違った匂いがテレビの画面から伝わってきた。

  今朝(29日)の河北新報のコラムは、三井物産出身の新会長をこう皮肉っていた。『商社マンは荒波を進むイメージがある。この人も自我が強いのだろうか』。籾井氏の就任が伝えら当初、OB仲間と交わしたのが「またも物産か」という言葉だった。前例がある。1988年(昭和63)、三井物産副社長だった池田芳蔵氏が会長に就任した。この人は国会での迷走答弁を繰り返し、混乱のうちに9か月で辞任した。その再来ではという不安だった。

  就任会見で、その不安は思い違いであることを知らされた。池田元会長は高齢ゆえの奇行を繰り返した。社内では”ぼけだ”というのがもっぱらの評価だった。小生の同期、政治部記者だった0君は会長秘書を命ぜられた。かなりの苦労があった。心労が重なったか、彼は定年前に夭折した。同期ではもっとも早い死だった。

  今回は事情が違う。従軍慰安婦はどこの国にもあったと強調した。ドイツ、フランスにもあったし、オランダにはまだ飾り窓があると付け加えた。開いた口がふさがらないとはこのことだ。言うまでもなく放送法では「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」(第3条の2、4項)とされている。NHKに籍を置く者なら誰しも、放送の中立性・公平性を担保する鉄則として、文字通り骨の髄まで承知し、努力してきたことである。トップが軽々とそれを破った。後輩の皆さんの悔しさを思った。

  国民の間に反発の声が根強い「特定秘密保護法」についてはこうも言った。すでに(国会)を通った。これが必要というのが政府の説明ですから、とりあえず様子を見るしかない。あまりかっかすることはない。安倍政権の代弁でなくてなんだろう。戦前、戦中のNHKは「大本営発表」をそのまま流し続けた。結果、この国を破局に導くことに手を貸すことになった。放送法はその過去の過ちの深刻な反省から生まれた。この人物は安倍政権の中枢とは個人的なつながりがないと報じられている。しかし、歴史意識の欠如、いやもっとはっきり言えば”反歴史的”な意識の持ち主という点では生き写しである。このような人々が国を、社会を誤った方向に導く。

  さすがの異常発言に反発は大きかった。自民党内からも辞任論が出たと報じられた。しかし、これも数日で抑え込まれた。そして、昨日(28日)のNHK経営委員会。期待はしていなかったが、やはり辞任を求めることはなかった。そもそもこの委員会が選んだのだ。委員には多くの安倍首相の”お友達”が送りこまれている。期待する方が無理だった。籾井会長は続投の意向を明らかにした。

  かくして、後輩の皆さんは残念なことに”憂鬱な日々”が始まることになった。OBである小生もその憂鬱な思いを共有し、できるだけ早く暗雲が吹き払われるよう微力ながら力を尽くしたい。

  思えば、NHKに在籍した30数年、こうした頭の上から押さえつけるような憂鬱な思いは常にあった。NHKの予算は国会の承認をえなければならない。予算という経営の根幹を人質に取られている。政界そして、政権の意向が経営まで及びやすい体質を内包している。会長、経営委員会の”政治性”が象徴的なことがらだ。

  政治的な色彩を帯びた会長だからこそ期待されている役割は、政治の圧力から制作現場を守ることである。そして、放送の中立性を守ることである。戦後間もなくの時期から、1973年まで会長を務めた前田義徳氏まで、新聞界からの出身者を中心とした歴代の会長は政治との距離を明確にしていたと伝えられる。

  しかし、その後私たちは不幸なことに、そうした気骨ある行動をした会長をいただいてこなかった。ロッキード事件の渦中にある田中角栄元首相を衆人環視の中、見舞いに訪れた会長がいた。政界とのつながりを隠さず、むしろ誇示した会長もいた。しかし、今回の籾井会長のように、議論の分かれるテーマに持論を、しかも見識を疑わざるをえないことを軽々と述べたのはこれまでなかったことなのだ。危機はここにある、

  在籍当時の私たちの取材・放送活動は、そうした政治性を意識することなしにはありえなかった。時には”政治的な”圧力を撥ね退けながらの取材を余議なくされることもあった。残念ながら、敗北に至ったケースもある。過度な”自主規制”がそれである。従軍慰安婦をめぐるETV特集の改変問題がその一つである。現場の抵抗を押し切って、経営組織が”自主規制”を優先させた。この問題については小生も別の意味での責任を感じている。機会があれば改めて述べたい。

  勿論、こうした有形無形の政治の圧力が四六時中充満しているわけではない。多くの場合、記者やデイレクターが自由に取材し、放送できる健全な環境は保たれている。震災や、原発事故では後輩たちはすぐれた番組を作ってきた。健闘ぶりは心強い。最近でもドラマ「足尾から来た女」(1月18日、25日放送)は芯の通った番組だった。明治の鉱毒事件を通して、福島原発の悲劇を早くも忘れ去ろうとしている、この日本社会に警鐘を鳴らすものだった。久しぶりに涙しながらテレビを観た。同時に、家人がこうつぶやいた。「会長が変わっても、こういういいドラマを作れるのかしら?」

  政治的な圧力に決して負けず、戦い抜いた歴史も私たちは持っている。1981年(昭和56)2月の「ロッキード事件から5年」企画ニュースの改変事件である。「事件を風化させてはならない」と語った三木武夫元首相のインタビューなどが、放送直前になってカットを命じられた。後に会長になる島桂次報道局長である。番組は短くされオンエアされた。この後も、社会部、政治部を中心に「報道の自由」を守る、を旗印に抗議の活動が続いた。社会部記者だった小生も戦列の後尾についた。2年後、中心となった記者が一斉に地方へ異動。小生も”パージ”のはしくれで地方局へ異動となった。

  この”事件”では結果としては、報道現場が負けた。しかし、報道の自由のために私たちは何をしなければならないか、結果としての敗北以上に大きな果実を得ることができた。

  憂鬱な日々を過ごすことを余議なくされる後輩の諸君、こうした歴史の記憶を胸に決してめげないでもらいた。いつかは、青空が戻るはずだ。》

 

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