小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1114 「関白」ゆかりのホテルにて 子どもの歓声戻った大洗

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 久しぶりに茨城・大洗を訪れた。海岸は白い波頭が目立ち、2年前のあの日(東日本大震災)のことを想像した。大洗の海岸に面する大洗シーサイドホテルに泊まった。このホテルはアマチュア野球界の神様的存在の故石井藤吉郎さん(1924~1999)の生家が営み、ホテルのロビーには、トロフィーなど石井さんゆかりの品が展示されていた。

 東日本大震災で震度5強の揺れと5メートル近くの大津波に見舞われた大洗の町は、復興の歩みを速めていた。 現在、アマチュア野球は高校野球の人気が高く、社会人や大学の試合はほとんどテレビでも中継されず、あまり話題にもならない。

 だが、かつてプロ野球より人気があったのが東京6大学で、東京五輪が開催された1964年から早大野球部の監督になり、早大の黄金期を築き、野球殿堂の競技者表彰を受けた石井藤吉郎さんといえば、その個性的名前(豊臣秀吉の幼名と同名)とともに記憶している人は少なくないだろう。

「関白」という愛称も持った石井さんは、大洗町出身で大洗シーサイドホテルは現在、石井さんの息子が経営している。 ホテルの部屋から望む太平洋の波は荒く、海岸には大洗磯前神社の鳥居が建っている。この神社の百段近くの階段を上ったところにある別の鳥居は地震で倒壊してしまったという。

 大洗の冬の名物はアンコウだが、東日本大震災の直前の2011年1月からホテルはアンコウを使った「あんこう天丼」をレストランのメニューの中に加え、口コミで評判が広がり始めた。その矢先に大震災が発生、がけ崩れや漁業施設の破損、家屋の全半壊が相次ぎ、多くの町民が高台へと避難した。ホテルも休業を余儀なくされた。

 大洗町では地震のため1人が亡くなったが、津波による死者は幸いいなかった。東北の被災地に比べ津波の第1波到達が遅く、津波の高さも低かったことに加え、防災行政無線放送が「避難せよ」と、ふだんは使わない命令調の放送をしたことが住民の早めの避難につながったそうだ。

 しかし、その後、東京電力福島第一原発事故による風評被害が漁業と観光の町を襲い、町民は苦渋をなめることになる。「茨城の魚は放射性物質が含んでいて危ない」という風評が広がり、観光客も激減し、ホテルもその影響を受ける。 あれから2年以上が過ぎ、大洗の町に人が戻ってきつつある。

 磯前神社の鳥居も再建され、水族館・アクアワールド・大洗も子どもたちで活気を見せるようになった。イルカとアシカのショーでは、子どもたちの大きな歓声が館内に響いていた。シーサイドホテルは女将の和子さんが陣頭指揮をとって泊まり客をもてなしており、新鮮な魚介類の料理は味音痴の私にも、そのうまさが伝わってきた。

 ところで、早大在学中に太平洋戦争で応召、2年間のシベリア抑留生活を経験した石井さんは、復員後早大に戻り、選手・主将として大活躍し、社会人野球でも名を残した。

 さらに高校野球の名門、水戸商業の監督、早大監督としてアマチュア野球一筋に歩んだ石井さんは、選手を枠にはめることが嫌いで、短所を指摘するより長所を伸ばす方がチームにとってもプラスになる、というのが持論で、明るく飾らない人柄は教え子たちから「オヤジ」として慕われたそうだ。

 石井さんが生きていたら、大震災で途方に暮れた人たちに対し、どんな言葉を掛けただろうか。早大の野球部監督に就任し、選手たちたちとの初対面で「寒いから、きょうは練習をやめよう」「野球は楽しむものだ」という言葉で萎縮していた選手たちの気持ちを和らげたというエピソードが残っており、シベリア抑留にも耐えた石井さんだけに、被災者を「あったかい」言葉で慰めたはずだ。ロビーのトロフィーを見ながら、そんなことを考えた。

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