小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1047 城下町・関宿にて 終戦処理の鈴木貫太郎ゆかりの町

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 関宿という地名を知っている人は、歴史好きなのかもしれない。関宿は1590年(天正18年)に松平康元徳川家康の異父弟)が2万石で城主になって以来、23代にわたって譜代大名が配置された城下町である。江戸時代は、由緒ある藩だった。

 それから時代を経て、いまの関宿は合併して野田市編入された埼玉と茨城に接するやや寂しい県境の街だ。 小高い丘の上に、関宿城がある。その城はかつての城を模擬復元したものだ。旧城跡は現在の関宿城から約600メートル歩いた草むらの中にあった。

 そこから歩いて10分足らずのところに太平洋戦争の敗戦処理をした当時の鈴木貫太郎首相の記念館があり、鈴木のゆかりの品や写真が展示されていた。 鈴木は1868年(慶応3)関宿藩の飛び地(所有地)の大阪・堺で関宿藩士の長男として生まれ、3歳の時に関宿に移り住む。海軍士官、海軍大将、侍従長を経て江戸時代生まれで非国会議員ながら終戦処理をする首相に就任する。 

 鈴木は「言行一致を旨とし議論より実践を先とすべし」(言うことと行動を一致させ、議論よりも実践することを優先すべきだ)という言葉を残している。この精神を持った政治家はいまほとんど見当たらない。

 野田市は銚子と並んで大手のキッコーマンがある醤油の街として知られる。2つの市を抱える千葉県は、醤油生産量で日本一なのだそうだ。ちなみに次は兵庫県で、千葉と兵庫で日本の醤油生産量の50%以上になるという。

 関宿に行ったのは、関宿城内にある千葉県立関宿城博物館で開催中の「醤油を運んだ川の道」という特別展示を見るのが目的だった。 関宿は江戸時代、街を流れる利根川と江戸川を利用して東北や関東からの物資を舟便で江戸に運ぶ拠点都市だった。その後、鉄道網の発達や自動車の普及で舟の存在は急速に薄れていく。それに伴って、関宿の名前は次第に忘れられていく。都市がいかに交通とのかかわりがあるかを関宿の歴史が示している。

 東日本大震災によって、被災地の鉄道も大きな被害を受け、いまだに復旧していない路線も少なくない。廃線に追い込まれた路線もある。それに伴って被災地の活気はますます失われることを危惧する。関宿を訪れてそんな感慨を抱いた。  

 関宿でも当然のように、写真を撮った。使ったカメラはソニーのミラーレスカメラNEX5だ。一眼レフのニコンD5100も使っている。たまたまキャノンのカメラを見ていて、あれ!と思うことがあった。ソニーニコンと比べて、レンズの回転方向が逆なのだ。なぜ、こんなことをするのだろう。

 しのぎを削る両メーカーは、独自性を発揮させるため、こうした手段を使ったのだろうか。 つまらない競争だと思う。そんなことよりも携帯電話のように、一眼レフを含めたデジカメからも撮影した画像をそのままインターネットで送信できるような製品を開発した方がいいのではないか。こんな考えは邪道なのかもしれないが…。