小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1057 一枚の写真の偉大さ 中国・イリの大河の夕陽

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「夕焼雲のうつけしければ人の恋しき」と詠ったのは、放浪の俳人種田山頭火である。友人の増田逸雄さんから、シルクロードの旅で写したという、珍しい写真が送られてきた。  

 夕日が雲に遮られて、雲の中に「王」という文字が浮かび上がっている。いずこの時代の王様が、人恋しさに太陽と雲に託しこんな光景を演出したのだろうか。  

 増田さんはことし9月、尖閣問題で日中関係が最悪の時期にシルクロードを旅した。写真を撮影したのはシルクロード天山北路の伊犁(イリ)という街で、写真にある通り大河が流れている。

 彼は「キタローのシンセサイザーで人気があったNHKの番組《シルクロード》で《ハミ(注・都市名)を出、バリコンを経、イリの大河を越え、ローマに至る》と石坂浩二の語りが流れたという、そのイリの大河で撮った偶然の一枚です。うまいとか下手とか関係なしに何か歴史を感じて感動しました」と、写真の感想を記している。  

 伊犁について調べてみると、清朝末期の名臣といわれた林則徐(1785―1850年)がこの街に追放処分になったことで知られているという。

 林は欽差大臣(きんさだいじん)=内乱鎮圧や対外重要問題処理などを担当する臨時の官職=としてアヘンをインドから清に密輸入するイギリス商人の取り締まりを強行、その制裁措置としてイギリスが清を相手にアヘン戦争を起こし、弱腰の清朝は林を解任し、伊犁へ追放したのである。イギリス国内でもこの開戦に「恥知らず」という声も出たそうだ。林は清廉潔白の人といわれるが、このような官僚・政治家が現代中国にはいるのだろうかと思う。

 旧陸軍の軍人で、明治時代に中央アジア踏査をした日本人として知られる日野強(1865―1920)もかつてこの街に足跡を残している。世界大百科事典によると、日清・日露戦争に従軍した日野は1906年7月参謀本部付として新疆視察の内命を受け12月に蘭州を出発、ハミ(哈密)、トゥルファン(吐魯番)ウルムチ(烏魯木斉)を経て、1907年5月イリ(伊犂)に到着した。

 さらに天山山中を経てカラシャールに出、そこからクチャ、カシュガルカラコルム峠を越えて,同年10月北インドのスリナガルに着いた。この時代の11カ月の旅は、現代では想像もつかないほどの難行苦行だったのかもしれない。

 たった一枚の写真からこんなことが分かるのだから、写真の力は偉大だと思う。  増田さんのものに比べると、想像力をかき立てることはないかもしれないが、ことしの旅で印象に残ったのが次の写真(2枚)だ。  

 増田さんと同じ9月に旅したトルコのアイワルクという街で、エーゲ海後方の山並みに沈む夕陽を見ながらシャッターを切った。その時は気づいていなかったが、右側に2人の人物が入っていた。2人は夕陽に向かって祈っているように見える。人は太陽を崇拝しその輝きに向け、時々の思いを朝な夕なに打ち明けているのかもしれない。

 

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     (エーゲ海の写真はクリックすると、人物がよく見えます)