小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

982 無力が悔しい 福井晴敏著「小説・震災後」を読んで

画像 「このどうしようもない世界で、これから生きていかなきゃなんないのはおれたちだ。返せよ、未来を」。福井晴敏の「小説・震災後」の中で、高校生の長男が父親に向かってこう叫ぶ場面がある。東日本大震災と東電福島原発の事故発生後の東京のサラリーマン家庭をめぐる小説は、大震災と原発事故という事実を前提に描かれ、3・11以後の日本の姿を振り返る材料になる。

 この「未来を返せ」という言葉は、原発事故で避難を強いられた福島の人たちの共通する思いなのではないか。もう子どもを産めない体になってしまったのではないかと不安な気持ちを持ち続ける若い女性、生まれ育った故郷を追われ、友だちと別れ別れになった子どもたち。第二次大戦当時英国の指導者だったチャーチルは、米国の原爆開発成功の報を聞いて、「原爆ってやつは(人類に対する)第2の神罰だ」(仲晃著、黙殺より)と述べている。

 原子の火を人間が手に入れたことで、第2の神罰が下るかもしれないとチャーチル流の文学的表現(チャーチルノーベル文学賞を受賞している)で警告したのである。 原子の火という、踏み込んではならない領域を侵したことにより、多くの子どもたちの未来が奪われたのは周知の事実だが、先ごろ終わった電力会社の株主総会を含めて、電力

 会社からの言葉からは次代を生きることになる子どもたちを思いやるものは全くない。 私たち戦後生まれの世代は、未来を求めて生きてきた。敗戦によってゼロからのスタートをした日本は、卓越した技術力と前を向き続ける楽天さがあった。その結果、世界に冠たる経済成長を誇る国になった。

 しかし、いつか成長が止まるのは自然界の摂理なのだ。バブルという飽和点に達した経済は、転落の一途をたどった。その経済を支えたのが原発だった。 バブル経済の崩壊は20年の失われた時代をもたらし、さらに戦後日本の象徴たる原発のつまずきへと突き進んだ。自然については一筋縄では解明できない。

 東日本大震災について政界も経済界も学界も「未曾有の」という言葉を使っている。それが一番、自分たちの責任を放棄することに便利だからだ。 だが、子どもたちからの「未来を返せ」という叫びに、私たち大人は明確に答えることができない。「小説・震災後」読んで無力な自身が、悔しいと思った。