小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

885 非常時こそバイクで現場に あるテレビコメンテーターと東日本大震災

画像東日本大震災は戦争を知らない団塊世代の私にとって、初めて列島規模で体験した『非常時』だった」―。東京MXテレビでニュース番組のコメンテーターをしている友人の角田光男さんが「テレビつれづれ帖」(株式会社フロンティア出版)という本を出版した。

 以前に出した「メディアつれづれ帖」という本の続編である。3・11については、角田さんと同様「非常時」という受け止め方をした人は少なくないはずだ。その一人である私は、当時の落ち着かない日々を思い出しながら、この本を読んだ。

 角田さんは、そうした思いを「温和な東北いずこへ」として第1章で3・11を取り上げた。地震発生当時、東京都内の自宅マンションにいた角田さんは愛用のバイク「ホンダカブ」に乗って、MXテレビに向かう。

 途中、九段会館(天井が崩落して多数の死傷者が出た)に救急車が何台も来ていたことや靖国神社の境内に大勢の人が避難していることを目撃する。 MXテレビでは夕方から翌日未明まで4回のニュースに出演、「今は非常時です。お互いに声をかけ、助け合いましょう。私たちは確認の取れた情報を流しますから、これを参考に落ち着いて行動してください」という趣旨のことを繰り返し話したという。

 現役時代、共同通信社の社会部記者だった角田さんは現場を踏むことが信条であり、そうした思いを震災後ホンダカブに乗って実行した。その結果、江東区内で液状化現象を見つけたり、自分が生まれた足立区の荒川放水路に通い続け、河川敷にかなり大きな亀裂が入っているのを目撃したりする。

 角田さんは共同通信社で36年に及ぶ記者生活をした。その3分の1近くを東北(仙台=記者、デスク、部長の3回、盛岡=記者)で過ごし、東北を「第2の故郷」と公言する。「社会人として、大勢の人と出会い、影響を受け、鍛えられ、そして成長してきた。その古里の町や村が津波に引き裂かれ、猛火に包まれ、鉄路は寸断され、放射線が飛散している。そして誰もが大切にしてきた日常がかき消されてしまった」と書く角田さんは、やがて岩手に行く。

 旧知の地元紙、岩手日報編集幹部に会い、岩手の祭仲間(角田さんはお祭り男として知られ、かつて浅草の三社祭と盛岡のさんさ踊りの交流の橋渡しをしたことがある)が企画した復興を願う祭りの取材を頼んだあと、被災地の宮古・田老へと入る。

 青春時代に見た街の姿が消えてしまった田老の惨状が目の前に広がっていた。衝撃を受けた角田さんは、赤崎というところの展望台近くにある小さなお社で「海の神さま、山の神さま、お願いです。どうか温和な東北に戻りますよう、お治めください」と祈り、手を合わせたという。

 この本は続いて第2章「光明るい春を」から第3章「ホオズキ輝く夏」、第4章「ピンクリボン 秋風の訴え」、第5章「『芝浜』 夢の冬」でまで、角田さんがニュースのコメントで話した短い言葉「「日々一言」(もちろん、話し言葉)をまとめている。その最初に出てくるのが東日本大震災の当日のコメントだ。以下、その全文。

《巨大地震の発生、都内でも被害が出ています。いまは平時ではありません。みんなで声を掛け、助け合いましょう。余震、心配です。でも、本震より大きな余震はありません。慣れない帰宅の夜道、道路標示を「見る」、分からなかったら「尋ねる」、おかしいなと思ったら「立ち止まって考える」。「日光の猿」(見ざる、聞かざる、言わざる、の意)になってはいけません》

 下町の足立区で生まれた角田さんは液状化現象に対する注意を喚起するために、都内のどこにも「ここは満潮潮位に比べ、プラスあるいはマイナス○○メートルです」という海抜表示をすべきだと提案している。埋立地の千葉・浦安や幕張が3・11の地震による液状化で大きな被害を受けただけに、彼の提案は大事だと思う。

 角田さんは東北で送った青春時代、ホンダカブ(あるいは同じようなバイクか)に乗って取材に行っていた。その姿を私も何度も見た。それから30数年後に再びバイクに乗って取材したと書いているのを見て、昔のさっそうとして角田さんの姿を思い出した。バイクで取材するキャスター・コメンテーターは彼しかいないのではないか。現場を大事にする角田さんの「日々一言」は、短くても鋭く心に迫ってくるのだ。