小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

838 ニーハオ店主の個人史(1) 日本人の父と中国人の母

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 30年来の友人で、蒲田を中心に中華料理店を営む八木功さんが77歳になった。喜寿である。この30年、彼は一日も休まず働き続け、彼の「ニーハオ」という店は、知る人ぞ知る存在にまで発展した。 八木さんの誕生日の7月9日、彼の家族、一族とともに喜寿を祝った。その席上で、八木さんは生い立ちから日本に帰るまでの自分史を次のように話した。ほとんどが初めて聞く話だった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   

 私は1934年7月9日、中国の旅順で日本人の父、八木龍平と中国人の母、劉芳禎の間に生まれました。ことしで77歳です。母は旅順でも有名な美人でした。父はとても優しい人で、両親は中国で2軒の料理店を経営していました。そのころは、日本人が経営しているレストランには中国人は入れませんでした。

 しかし、父の店は中国人、人力車や馬車を押して働く人など、だれでも入って食事をしていました。そのため私が小さい時は、よく馬車や人力車に乗って遊ばせてもらいました。いつも旅順の白玉山や海に遊びに連れて行ってもらったことを思い出します。とても楽しい時代でした。

 私の父は1898年(明治31)、日本の松山市で生まれました。父は22歳で陸軍兵士として中国に出征、除隊後も日本には帰らず、中国済南、青島、烟台、旅順でいろいろな仕事をしていました。28歳の時から旅順で2階建ての建物を2つ、120坪ぐらいのものを買って日本料理のレストランを始めました。店の名前を「コンパル」とつけて、一生懸命頑張りました。レストランのコックさんは2人とも中国人で、ホールは6人の日本人と中国人が働いていました。 母はこの店で仕事をしていて父と知り合い、父が33歳の時、結婚したのです。

 それから8年後、旅順の配給制度が原因で、店の経営が悪くなりました。そのため、父は私が5歳の時に薩拉斉県(内モンゴルサラチ)でホテルを経営している友人の所に単身で行き、同じレストランを作りました。母は父の後を継いで旅順のレストランを経営しました。 私は6歳で旅順第一小学校に入学しました。

 父は遠くにいたので、母は私がかばんを背負った写真を撮り、父の所に送りました。1年後、父のレストランが繁盛しましたので、母は私と弟の章夫を連れて薩拉斉県に行きました。そこで4年ぐらい、店を経営し、家族で一緒に生活しました。弟の弘行と雄夫はここで生まれたのです。

 母は、4人の子どもを育てながら、店のことも父と2人で頑張っていましたので、私は母をとても尊敬し、学校の授業が終わったら、いつも店の手伝いをしておりました。そろばんで店の会計担当でした。母はお弁当をつくり、私が育てた犬が毎日学校までこのお弁当を運んできてくれました。信じられないかもしれませんが、この犬は買い物もできました。そのころ母は、私が嫌いなものばかりをつくって食べさせました。ですから、好き嫌いはなくなりました。何でも食べることができるので、体は大変丈夫でした。(2回目に続く)