小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

837 表現者は現場を踏んで 寂聴さんの含蓄ある言葉

以前のブログでも書いたが、岩手県の平泉が世界(文化)遺産に登録された。このニュースは被災地・被災者を勇気付けることだろう。友人が最近、平泉と縁の深い作家の瀬戸内寂聴さんに会った。その話を聞き、89歳の高齢になっても意気軒昂な作家の力強さを感じた。「現場に行き、自分の目で確かめる」というのが基本姿勢なのだという。 友人は、寂聴さんを訪ねて京都に行った。友人によると、応接間でもてなしてくれた寂聴さんは、体調を崩して昨年11月から今年4月まで寝込んでいた。しかも89歳と高齢だが、それらが信じられないほど元気だったという。普通に歩き、声には張りがあり、しかも頭の回転は早い。表情は生き生きとしており、話が尽きないくらい話題が豊富だった。 友人は、 帰り際に私の5月12日付のブログをプリントしたものを手渡し、説明した。すると「ああ、Sさん。そうなの、あのとき何か一句書いてくれと頼まれたのよ。(記事を見て)そうそう、この句」と、とても懐かしそうに話した。そして、「(Sさんは)早く亡くなってかわいそうだったわ」と語ったという。 寂聴さんは、日経新聞に連載の「奇縁まんだら」のほか、恋愛小説を執筆中だと話し、「物書きは毎日書かなければ駄目です。坊さんは朝が早いと思い込んでいるでしょうけど、私は毎日夜遅くまで書いています。だから朝は少し遅く起きてお経をちょっと読んで・・・」と話した。精進料理を食べているのかという質問には「物書きは肉を食べないと書けません。私は肉も食べています」と答えたそうだ。 私を感心させたのは、次の含蓄ある言葉だ。「作家も翻訳家も、現地に行って自分の目で確かめないといいものは書けない」。(東日本大地震の被災地に関して)「情報があふれるほどあるが、最近行って見たら想像以上だった。イラクにも多国籍軍に関する報道ばかりでおかしいと思って行ってみたら、やはり違っていた」。 友人にとって、寂聴さんインタビューはこれまでになく素晴らしい出来事だったようだ。ふだん冷静な友人は、その感想を「この上ない幸せを感じた。最高でした」と述べている。 寂聴さんの「現場を見る」という基本姿勢に関して写真家の藤原新也氏がスペイン・カタルーニャ国際賞の授賞式で作家の村上春樹さんが反核・反原発の姿勢を示したことに対し、自分のブログで「村上春樹の空論」と題して、「村上の話は空論にあふれ、世界に名だたる作家の言葉かと耳を疑う」と書いたことを思い出した。 藤原氏は、村上さんが原発事故の現場も踏まずに発言したことに「何かを伝える表現者たるもの、言葉のリアリティを取得するためには現場の空気を1回でも吸う必要がある」と指摘した。村上さんの発言は現場を踏む、踏まないという問題ではなく、作家の思想、良心を表現したもので、藤原氏の批判は当たらないと私は思う。 それでも、藤原氏の「現場を大事にする一徹な姿勢」は寂聴さんと共通するもので傾聴に値する。頭で想像するよりも、現場を見て物事を判断するという姿勢は、多くの分野にも当てはまることなのだ。