小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

822 「心に刻む応援のメッセージ」 福島・川俣にて

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 福島市の市街地北部にある信夫山(標高275メートル)から、市内を一望した。ぐるりと山に囲まれた盆地の街であることがよく分かる。ふだんなら、静かな街の風景を楽しんだだろう。だが、案内してくれた知人の「ほら、あそこの中学校の校庭で表土除去作業をやっていますよ」という言葉に、この街も平穏ではないことを痛感した。

 知人によれば、そこは福島大学付属中学校で、ブルドーザーなどの重機が校庭に入って作業が進められていた。福島市は事故を起こした東電福島第一原発から60キロ以上離れているが、放射線量の数値が高い地区もあるという。画像 放射性物質から児童、生徒を守るために校庭全体の表土を削り取り、校庭の一部に深く掘った穴の中に埋めることで、放射線量が低減するのだそうだ。そのあとこの中学校まで行き、高い塀越に作業を見た。

 原発事故後、福島県内の多くの学校の校庭から人影が消えた。さわやかな季節は、不気味な恐怖の季節になってしまったのだ。 福島市から、計画避難地域に指定された飯舘村の小学生たちの仮校舎になった川俣町の川俣中学校に向かった。飯舘の3つの小学校の子どもたちは、4月21日から隣接する川俣町のこの中学校の教室で授業を受けている。原発事故は大人だけでなく子どもたちをも巻き込んで、苦しめている。

 東京・武蔵村山の第八、第十小ともったいない図書館で知られる福島県矢祭町立東舘小学校の校長らが、東京のNPOアジア教育友好協会と飯舘の子どもたちを激励しようと、2つの鯉のぼりを贈ることになり、それに同行した。一つにはラオスベトナムの小学生や先生たちが応援のサインをしており、もう一つには、東舘小の子どもたちのサインが入っている。

 校長らの激励の言葉を聞いても、子どもたちは何となく元気がない。マスク姿も目に付く。 だが、贈呈式が終わり、記念写真を撮るころから、子どもたちの表情に生気が戻ったような気がした。鯉のぼりに触りながら、メッセージを見つめる顔は好奇心でいっぱいだ。「子どもの顔はラオスも東京も福島も、みんないい」と、校長の一人がつぶやいた。 6年生の高橋柊君は「きょう応援していただいたことを心に刻み、これからどんなことにも負けないで、力いっぱい頑張っていきたい」と話した。

「心に刻み・・・」なんて、ぐっとくる言葉を知っているなと思いながら、私は凛々しい少年の顔を見続けた。 私は以前、飯舘に行ったことがある。高台の農家に泊まってその家の人たちや近所の人たちと夜遅くまで酒を飲んだ。みんな言葉は少ないが、気のいい人たちだった。

 飯舘の村民の森にある「あいの沢遊歩道」には、全国から集まった「愛の俳句」50句の記念碑が並んでいた。記念碑も人目に触れず、ひっそりと飯舘の人たちの帰りを待つことになったのである。 川俣からの帰りに、車の中から、上下雨具のようなものを着て帽子をかぶり、マスクをした婦人が黒い傘をさして歩いているのが見えた。雨が降っているわけではない。

 この町の一部も計画避難地区に指定されており、自己防衛のための格好なのだと理解した。 八百長事件で揺れる大相撲に、かつて福島県出身の福島市の山と同じ「信夫山」という名力士がいた。身長177センチ、体重109キロと力士としては、小兵(体が小さい)だったが、そのハンディを乗り越え、関脇まで昇進し、「双差しの技能派」として相撲全盛時代、人気力士の一人になった。彼は基本に忠実で、努力の結果、自分の技を会得したのだ。 福島県の人たちは、寡黙、頑固、努力家で誇りが高いといわれる。信夫山もそうした福島県人を代表する名力士だった。