小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

803 ある教師の1カ月 日本人よ!

  巨大地震、大津波に続く福島原発事故は収束の見通しは立たない。そんな中で、福島県矢祭町立東舘小の宍戸仙助校長から「余震の大きさと、原発の状態に、折れそうな心で描いた随想です」というメールが届いた。大震災と原発事故が重なり、動揺する人たち。そんな渦中にいる一人の先生の溢れる思いが伝わる文章を以下に紹介する。

 あれほどの震災と津波に遭い、これまで、人生をかけて築いてきた自宅が流され、精魂を傾けて積み上げてきた職場や工場が倒壊し、親しい隣人や掛け替えのない家族を奪われ失い、着の身着のままの状態で、劣悪な環境の避難所の失望の最中にあっても、給水を受けるペットボトルを1本さげて、薄い毛布一枚を、パンのひとかけらを、冷たいおにぎり一個を、文字通りの長蛇の列に、雪のちらつく中に寒さにふるえながら整然と並び、黙々とと耐える被災者の方々の姿が映し出された映像は、涙なしには見ることはできなかった。

  その映像は、多くの外国の人々を感動させずにはいなかった。日本人の辛抱強さ、日本人のひたむきさ、日本人の勇気と希望。日本人は、この千年の間に、多くの苦難を乗り越えてきた。荒川秀俊・宇佐見龍夫著『災害』近藤出版社他によると、1181年から飢饉を9回、大火災を8回、台風を5回、噴火を6回、そして地震を16回(http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199204.htmlによる)。中でも1732年の亨保の飢饉では、餓死者が96万9000人という記録もある。

 「地震・雷・火事・親父」親父は、もう怖くはなくなったが、その天災地変の中で最も怖いとされた地震では、1923年の「関東大震災」で14万2000人の死者・行方不明者である。

 「44回にも及ぶこれほどの苦難を乗り越えてきた単一民族の遺伝子の中に、これらの苦難を乗り越えるための『力』が組み込まれていない筈はない。」ここ数日、そう思い始める。

 1948年の福井地震で、自宅が崩壊し、がれきの中から九死に一生を得て助け出された認定NPO法人「アジア教育友好協会」の理事長、谷川 洋氏の身体には、髪の毛の先から、足の爪の先まで、本人の意識とは別に、その時、全身に刻まれた情報と決意がみなぎっているのだと思う。

 日本人は、どんな苦難や災害に襲われても、常に「希望の火」を見失わず、10年後、50年後の復興を信じて努力を重ねてきた。16回の地震の記録を見ても、1854年の安政東海地震と1891年の濃尾大地震マグニチュードが8.4で最大。しかし、今回の東日本大震災マグニチュードは9.0。千年に一度の大地震である。

 その勇気と復興への希望を忘れない魂の血が脈々と流れる子どもたちに、生きる力を育むことのできる教育現場に、今、いることに誇りに思い、また、その責任の大きさを感じる。

 10日夕方の余震は、震度6弱。今朝も3度ほど余震を感じ、5時半から町内の校長先生方と臨時休業も視野に入れて協議を重ねてきた。本日11日14:07の余震は、震度4強だとの報告であったが、子どもたちが校舎内にいただけに大きな緊張が走った。

 揺れが治まり次第、校庭に全員を避難させ、学年ごとの再度校舎の中で、下校の用意をさせ、教師の引率のもと、2~6年生を集団で下校させる。バス通学の児童は、職員の自家用車で自宅に家族がいることを確認しながら送り届けさせる。

 いわき市では、震度6弱。「矢祭町の震度計は壊れているのでは?」と、職員が震度計を疑うほどの状況であった。耐震補強工事を実施していない校舎は、上へ行けば行くほどその揺れは大きい。そうした中、一通の現金書留の封筒が届く。白河市表郷に住む高齢の女性からだった。

 その女性は、今年1月にテレビ放送されたラオスの現地の映像を見て、「少しでも、現地の子どもたちを助けたい、応援したい、励ましたい」と感じ、「年金生活ですので、あまりたくさんは贈れないのですが」と言いながら、たくさんの現金を送って下さったのだ。

 電話でお礼の言葉をお伝えすると、「こんな時だからこそ、ラオスの子どもたちも助けたいのです」と。この高齢の女性の言葉に象徴されるものは、単なる「日本人の勇気と希望」を越えるものではないでしょうか。