小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

741 「言葉と向き合う」詩人の死 追悼飯島正治氏

画像

「薇」の名をつけた「詩誌」の第3号が届いた。佐川急便の「ゆうメール」という宅配便で送られてきた。封を切り、詩誌の目次を見る。なぜかこの詩誌の中心人物である飯島正治氏の作品がない。頁をめくって「静かな人詩人・飯島正治追悼」(石原武さん)という題名があり、目を疑った。飯島さんが亡くなったというのである。私にとってことし一番の衝撃だ。

  飯島さんとの付き合いは30年以上になる。今回の「薇」で石原さんが書いている通り「静かな人」だった。しかし、内実はそうではなかったと思う。仕事と向き合う飯島さんの姿に幾度となく接した。原稿を点検する顔は引き締まっていて厳しかった。このころの飯島さんは新聞社の文化部長だった。

  最近、飯島さんとの接点は洋画家である息子さんの個展の案内はがきと「薇」が届いた後のメールのやりとりくらいだった。メールの内容も特に体調がおかしいことは感じさせなかった。だから、ことしの9月7日に飯島さんが亡くなったという事実を信じることはできないのだ。

 「薇」の同人たちは3号の中で、それぞれの詩のあとの「小景」という欄で飯島さんが亡くなったことに触れている。冒頭の石原さんは「君は最高の作品(息子の洋画家、誠さんのこと)を残して旅立ったね」と書いた。次に中尾敏康さんは、飯島さんが亡くなったという電話を受けとあと「何故、どうしてという思いが私を支配して心ここにあらずという状態だった」と、当時の心境を記している。

  宮尾壽里子さんは、川のある風景という小文のなかで「私の体重はすぐに戻る。しかし、彼岸へと旅立たれた飯島先生は戻られない。優しみのある風情だけを残したまま」と思い出をつづった。飯島さんと同じく新聞記者である秋山公哉さんは、勤務する新聞社の引っ越し作業について触れた後「と、ここまで書いたところに、飯島さんが亡くなったという知らせ、同じ新聞記者という職業にあって、詩を書く難しさを話し合える唯一の人だった。引っ越し荷物の半減整理はうまくいった。しかし大切な先輩を失い、私の気持ちの方は整理のつかないままでいる」と、心に穴があいた心境を記した。

  杜みち子さんは、飯島さんが畑にジャガイモを植え付けたことを書いた詩を思い出しながら「植えられたジャガイモは夏の初め、無事に花をつけたのではないかしらと想像しておりました。そのせいか、大宮台地に近い会館でお見送りした時、啄木の短歌を思い出しました(中略)馬鈴薯のうす紫の花に降る雨を思へり都の雨に 啄木」と書いた。

  北岡順子さんは「薇への思いを残されて」と題して、飯島さんへの思いを記した。北岡さんは飯島さんの「日々」(詩集、朝の散歩より)という詩を紹介し「飯島さんの家庭人としての柔和な横顔が覗え、清んだ光が詩のなかから読み手を照らすような詩である。老いていく日々、その豊かな充実が絶たれたことを、心から惜しんでやまない。合掌」と、飯島さんの死を悼んだ。

  以下は飯島さんの詩「日々」である。

 

 五月の嵐が止んだ午後 

 濡れた庭土に花びらが散り敷いている

 スパゲッテイをゆでていると

 遠くへ嫁いだばかりの娘の

 明るい声が聞こえたような気がした

「塩をちょっと入れてゆでるのよ、お父さん」

 

 青春の嵐が過ぎて

 新しい家庭を持つ前の穏やかな日々

 スパゲッテイをゆでる度に言われた

 娘の言葉だった

 

 手をつないで花火を見に行ったこと

 浜辺で歓声をあげたこと

 幼かった娘の姿が

 いっぺんに浮かんでくる

 私の過ぎ去った日々が見えてくる

 老いてゆく日々も見えてくる

 

 陽がさして新しい緑がまぶしい

 庭木に架けた餌台に子雀が来て

 パン屑をしきりに啄ばんでいる

 《飯島さんは、天国でお嬢さんと手をつないで花火を見に行った夏の日を思い出しているのだろうか。あるいは、成長して嫁いでいったお嬢さんの「お父さん、塩は・・・」という言葉を聞いて相好を崩しているのだろうか……》