小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

736 『神様は海の向こうにいた』再出版! 戦艦武蔵乗組員の証言(1)

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 このブログを始めた2006年9月、2回にわたって「神様は海の向こうにいた」という題名の小冊子を紹介した。尊敬する姉を含め私よりも早くこの世に生を受けた世代の人たちの戦争体験を集めたもので、この小冊子が4年ぶりにこのほど再出版された。  前回の10人の作品に加え新たに5人の体験を紹介しているが、前回体験記を書いた10人のうち4人が亡くなったという。戦争を知る世代が急減していることを実感する。その意味でもこうした体験記は平和を願う世代から次代へのバトンを託そうという切実な意味が込められているといっていい。 前回の作品については、06年9月18日9月20日を読んでいただきたい。

 今回は前回の10人の作品に加えて、5人の戦争体験(体験記と体験のインタビュー・聞き手はこの冊子の編集者である衣山武秀さん)を載せている。 その中でまず「沈没する戦艦武蔵から脱出して」という、小島小三郎さんへのインタビューを紹介する。(以下、その骨子)

 小島さんは1919年(大正8)6月に生まれた。父親が当時流行していたスペイン風邪で亡くなり、東京で生活していた母親は親戚のいる福島県棚倉町に身を寄せた。この町の農蚕学校を卒業した小島さんは東京で調理の勉強をしたあと有名な料亭で板前をしていたが、20歳で徴兵検査を受けて横須賀の海兵団に入隊、武蔵に主計科として勤務した。 1043年2月、広島県呉で訓練を終えた武蔵はトラック諸島に移った。山本五十六連合艦隊司令長官戦艦大和からこの武蔵に乗り移り指揮を執った。

 しかし、その2カ月後、山本長官は戦地視察のためラバウル島からブーゲンビル島に飛行機で向かう途中、アメリカ軍機に攻撃されて戦死する。その遺体を武蔵が日本まで運んだ。 ―それはごく一部のものしか知りませんでした。あるとき「全員が船室に入れ」と命じられたことがありました。そのときに(山本長官)の遺体が運びこまれたようです。しかし、数日して噂として広がりました。

 武蔵は山本長官の遺体を載せて日本へと向かいました。木更津沖でいったん停泊し、横須賀港に向かいました。山本長官の戦死は40日後に発表されました。日本は勝ち進んでいると思っていた多くの日本人にとって山本司令長官の戦死はたいへん衝撃的でした。政府は山本長官を「軍神」といいました。―(原文)

 その後、武蔵はトラック島からパラオ諸島に向かい米軍の空襲から逃れるため呉に移動を始めた。途中、魚雷攻撃を受けたが、自力で呉に戻った。小島さんは航空兵の炊事の仕事のため、パラオにいたため置いてきぼりを食い、飛行機で呉に戻り、武蔵に合流した。それは1944年3月のことだった。 武蔵はその後インドネシアのボルネオ、呉、シンガポールを経て米軍との一大決戦となるフィリピン・レイテ沖を目指す。これが実は巨大戦艦・武蔵の最後の戦いだった。(続く)

 『神様は海の向こうにいた』 戦艦武蔵乗組員の証言(2)