小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

711 小沢氏を追い込んだ司法改革 国民の目線は

 司法制度改正の目玉は「裁判員制度」の導入だった。裁判に国民の視点を取り入れようというもので、検察審査会法の改正もその一環だ。

  審査会が2回にわたって対象の事件について「起訴相当」という結論を出した場合、議決に拘束力を持たせ「強制起訴」されるのだ。この改正案を通したのはもちろん国会である。小沢一郎民主党元幹事長に対し、東京第5検察審査会は2度目の起訴相当の結論を出した。これによって小沢氏は強制起訴されることになった。

  これに対する政治家たちの反応に注目した。一部のコメンテーターは「素人で構成する審査会が検察の判断を覆すのは、おかしい」という見方を強調した。小沢氏を支持する政治家たちも「素人」とはいわないまでも「裁判の判決が確定するまでは推定無罪が原則だ」と主張し、審査会の結論に疑問を投げかけた。推定無罪の原則はその通りにしても、検察審査会の在り方をいまになって批判するのはおかしな話だ。では司法改革とは何だったのかと思う。

  改正案を通した国会議員たちは何を考えていたのか。自分たちが通した法案をいまになって批判するのは、彼らが法の精神を考えていないいい加減な存在であるかを露呈してしまったようなものだ。

  古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「悪法もまた法なり」と述べ、順法精神の重要さを訴えた。改正検察審査会法が悪法かどうか、まだ分からない。それなのに、急にこの法律を批判する勢力も少なくない。

  小沢氏は、自らの疑惑について国会で全く説明しなかった。これまで多くの政治家たちが証人喚問に応じて、説明をした。しかし、小沢氏は巧みに避け続けきょうまで疑惑の詳細に国民に語ることはなかった。

  今後、裁判という公開の場で、小沢氏は自らの疑惑をどう釈明するのだろうか。彼にとって、生涯で一番厳しいいばらの道が始まったといえる。国民感情とは別次元の世界で生きてきた小沢氏は重い十字架を背負ったと思う。それは彼の生き方を問うものなのだ。