小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

697 映画「トイレット」の世界 もたいまさこの目の演技

画像 見る人に想像力を求める映画だ。「かもめ食堂」の荻上直子監督の新しい作品「トイレット」である。米国(撮影場所はカナダのトロント)の小さな町を舞台に主な出演者は、もたいまさこと3人の孫たちと一匹の猫である。

 日本の映画だが、セリフはすべて英語で、日本語で字幕が出る。しかも、もたいは99%セリフなしで演技する難しい役柄だ。

  内容に触れることをお断りするが、ストーリー自体はそう複雑ではない。しかし「人間には言葉の壁を乗り越える力があることを感じる、奥の深い映画」というのが私の感想だ。

  企業の実験室勤務のロボットプラモデルオタク、レイを取り巻く家族の物語だ。彼の母親は日本人らしい(父親は米国人かカナダ人なのだろうが、どこにいるかわからない)。この母親が亡くなり、住んでいたアパートも家事で焼けてしまったレイは、母親のいない実家に戻る。

  そこにはピアニストを目指しながら引きこもりとなった兄のモーリーと生意気な学生の妹・リサがおり、さらに母親が大金を使って捜し出し、 日本から呼び寄せたばーちゃん(もたい)とセンセーと呼ばれる猫もいる。

  英語が話せないばーちゃんは毎朝トイレが長い。しかもトイレから出て来る度に必ず深いため息をつく。3人のきょうだいは、初めはこんなばーちゃんに違和感を持ち、レイは血がつながっているかどうか疑いDNA鑑定まで依頼する。このばーちゃんとの生活を通じて3人はいつしか家族のきずなを取り戻していく。

  もたい演じるばーちゃんは、なぜトイレから出るたびに深いため息をつくのだろうか。映画ではレイの友人のインド人が「日本には和式と洋式のトイレがあり、洋式にはテクノロジーを発揮したウォッシュレットというトイレがある。それがないからばーちゃんはつらくて長いトイレになり、終わった後でため息をつくのではないか」と解説する。

  それを聞いたレイは、3000ドルを払ってウォッシュレットをばーちゃんのために取り付けることにする。

  しかし、この映画を私より先に見た娘の感想は違った。ばーちゃんは最愛の娘を失った悲しみが消えずトイレで長い間泣いていたに違いないというのだ。私はそれに反論した。「自分の部屋があるのだから、部屋で泣いているはずだ。それ以外のときはセンセーを膝に乗せ、娘を思っているのではないか。トイレはやはり、インド人の言うようにウォッシュレットがないからつらいのではないか」と。だが、やはり、娘の言うように、ばーちゃんはトイレで長い間泣いているのではないかと思う方が自然だと思う。

  印象に残ったシーンは3つある。

  一番目は3人のきょうだいが言葉を発しないばーちゃんに、身ぶり、手ぶりで教わりながらギョーザを作る場面だ。先に映画を見てきた家族はその夜、10年ぶりに皮から手作りのギョーザをつくった。最近はもっぱら市販の皮を使っていたのにどうしたのかと思ったが、この映画を見て、なるほどと納得した。

  次に、ピアニストを目指すモーリーがコンテストの舞台でパニック障害の発作が起きた時ばーちゃんが「モーリー、クール」と叫び、孫を救う場面である。実はもたいのセリフはこの一言だけだった。顔の表情と目で物を言うもたいの演技が渋くていい。

  三番目は、ばーちゃんが亡くなったあとに備え付けれらたTOTOのウォッシュレットをレイが使う場面である。レイ役の俳優の演技は絶妙で、私は初めてウォッシュレットを使ったときのことを思い出して笑ってしまった。

  この映画はあまり冗舌ではない。ばーちゃんがなぜ大金を持っているのか、説明はないし、母親がどんな人で、父親はどうしたのか、ばーちゃんは日本のどこから来たのか、ばーちゃんと3人の母親がなぜ長い間別れていたのかなど、疑問は多い。

  だが、それは見る人が勝手に想像すればいいのかもしれない。派手な服を着てバス停に座っている変な女性(西の魔女が死んだのサチパーカー)も、観客が想像力を働かせるのに一役買っている。