小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

622 「ここに記者あり!」 自由を愛するジャーナリスト魂

画像

『ここに記者あり!』(岩波書店)は、共同通信社で生涯一記者を貫いた村岡博人の記者としての生き方を通じて、ジャーナリストの「実践論」を書いた本(筆者の片山正彦のあとがき)である。

  同時に社会部記者の活動を通じた戦後史として読むことができる作品だ。一気に読み終えて思うのは、村岡のような記者はもう誕生しないのではないか、ジャーナリズムは衰退を続けているのではないかということだ。

  村岡は、伝説的な社会部記者である。かつて首相や大臣の記者会見で、政治部記者の質問とは異質の政治家には耳の痛い質問を繰り返し、知る人ぞ知る存在だった。旧社会党土井たか子委員長や競艇界に君臨した笹川良一日本船舶振興会(現在の日本財団)初代会長、元東京都知事青島幸男ら幅広い著名人に信頼され、交流を続けた。

  片山によると、村岡はサッカーW杯に初めて日本が挑戦したスイス大会(1954年)予選で、日本代表のゴールキーパーを守った元サッカー選手だった。運動記者として共同通信に入った村岡は、数年で社会部に移り、小松川高校女子殺人事件や在日朝鮮人の集団帰国などを皮切りに、下山事件松川事件、60年安保闘争東京五輪など戦後史に残る事件やイベントの取材にかかわる。

  その後も国会の黒い霧疑惑、倉石発言、金大中事件ロッキード事件など、政治を担当する社会部記者として奮闘を続けた。ロッキード事件の被告、佐藤孝行衆院議員からは国会内で殴られたこともある。

  最大の試練は、旧ソ連の元情報機関・KGBの元将校レフチェンコが米国に亡命後、日本での情報活動の協力者の存在を証言した際、村岡の名前が取りざたされたことだった。

アレフ」というコードネームの記者の存在が証言で明らかにされ、日本のメディアはそれが村岡ではないかと騒いだ。片山はこの問題について「試練に耐えて」という章の中でレフチェンコの証言がいい加減だったかを含めて検証結果を書いている。ここでは詳しく書かないが、片山の指摘は説得力があると記しておく。

 村岡は、共同時代の晩年(共同時代と書くのは、彼が定年退職後も記者活動を続けているからだ)、社内で「原稿を書かない」「記事が下手だ」という悪評が出たという。「書かざる大記者」だという陰口をたたく後輩たちもいたようだ。そうした評判があっても村岡は、60歳まで社会部の国会担当としての道を貫き通したのだった。

  村岡と記者活動をともにしたことがある片山は、村岡を「戦闘的リベラリストで、何よりも自由を大切にするジャーナリスであり続けた」と評価し、後輩の記者たちに向け「村岡のジャーナリスト魂の息吹に耳を澄ませてほしい。村岡のように、真実を鋭く質し、時代の進むべき方向を問い続けてもらいたい」と書いている。この本は、村岡という稀有な記者の生涯を追いながら、片山の豊富な取材体験も交えた生きたジャーナリズム論といえよう。

  いま、報道機関は元気がない。村岡や片山が在籍した共同通信もだいぶ変わったと聞く。胸のすくようなくスクープは久しくない。村岡や片山はいい時代に記者生活を送ったのだと思う。この本を読んだ現役世代の奮起を促したい。