小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

582 15年前のあの日のこと

  阪神・淡路大震災から15年が過ぎた。15年前のあの日、何をしていたのか、記憶の糸をたぐった。当時私は浦和市に単身赴任をしていた。

  あの日(1995年1月17日)は火曜日だった。40代半ばで亡くなった友人の葬式に出るため、前夜から自宅に戻り、朝のテレビで大きな地震があったことを知った。友人の葬式に続いて、夕方からは定年を迎えた先輩の送別会に出た。2人とも地震をはじめとする災害問題を取材のテーマにしていた新聞記者だった。

  友人は、科学記者だった。地震をテーマに取材を続け、南極にも行き、災害現場にも数多く出張した。彼の欠点は酒を飲みすぎたことだった。若いころから酒が大好きで、地下にある居酒屋の常連だった。そのために体ががんに蝕まれて亡くなったのだった。

  山男の先輩は編集委員として、災害問題を中心に取材を続けた。阪神大震災の日に、一人が葬られ、一人が現役を離れた。送別会では、当然のように阪神大震災のことが話題になった。出席者の一人があいさつでこう言った。

 「大変な地震が起きた。きょう見送ったA君も定年になったBさんも、別の日に起きていたら神戸に行っていたかもしれない。ここにいるみなさんは、きょうという日を忘れることはできないと思う」

  神戸には、2人の指導を受けた後輩たちが応援に出かけ、現地の記者たちと一緒に不眠不休で仕事を続けた。だれかのあいさつのように、その後、この日を迎えると、私はA君とBさんを必ず思い出すようになった。

  震災後、神戸には数回行った。ある時ケーブルカーで六甲に上り、街を見下ろした。神戸の街は、震災のつめあとが消え、美しい街に復興していた。

  被害が大きかった長田区(死者921人、不明1人)に足を伸ばし、新しくなった町並みの一角にあるウィズアスというNPOを訪ねた。このNPOは、障害者の観光案内支援のため情報誌を出しているが、取材を担当している女性の障害者は地震で祖父を亡くした人だった。

  彼女は、肉親を失った震災をぽつぽつと話してくれた。当然、悲しみは深かっただろう。しかし、時間が流れ、その悲しみから立ち直った彼女は車いす姿で取材に出かける。「家に閉じこもっているよりも、街を歩く方が好き」なのだという。

  この女性のように、多くの人たちが肉親を失った。実家が全壊した友人もいた。計り知れない自然のエネルギーが多数の人の運命を変えたのだった。