小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

50 歓喜する円空 名僧の生涯に光

画像

 梅原猛の「歓喜する円空」(新潮社、382頁)は、各地に多くの円空仏を残しながら、あまり評価をされなかった円空に、真正面から光を当てた作品である。

  円空(1632年-1695年)は江戸時代前期の僧で、美濃(現在の岐阜県)に生まれた。若くして出家し、中部地方を中心に北海道から近畿に及ぶ各地を遍歴し、多数の荒削りの円空仏といわれる木彫の仏像を刻んだことで知られる。

  梅原によれば、円空は「まつばり子」(父親が分からない私生児)だった。そのために、円空は一生流浪せずにはいられなかった深い孤独感、故郷に対する愛憎入り交じったアンビバレント(相反する気持ちが同時にある様子)な感情を持ったとされるのだ。

  円空は天才だった。彼が残したおびただしい木彫りの仏像は表情も多様で、豊かである。口絵にカラーで紹介された「八面荒神像」(岐阜県美並円空ふるさと館展示)など数々の仏像は、その中でも傑作中の傑作なのであろう。

  円空はまた、和歌や絵にも通じた。「一芸に秀でれば万芸に通ず」なのであろうか。中でも面白いのは、版画家の棟方志功円空の像を見て「ここに俺の親父がいる」と抱きついたというエピソードが残っていることだ。

  円空と志功の絵は雰囲気がそっくりなのである。梅原は「もし円空が志功の絵を見たら、こいつは俺の子どもだと言ったかもしれない」と書いている。

  梅原は言うまでもなく、文化勲章を受章した哲学者だ。この作品は、円空の生涯をたどっただけでなく、円空という「まつばり子」を描きながら、さりげなく梅原の自分史も折り込んでいるのが目に付く。これが作品としての幅を広げていると私は感じた。

  梅原は宮城県で生まれた。実母が亡くなったため1歳8ヵ月で愛知県の伯父夫婦の養子になった。そうした生い立ちが円空への傾斜をさらに強める結果になったのだろうか。梅原が青森県の恐山で実母の霊をイタコに下ろしてもらうくだりも読ませるものがある。

  実母や梅原のことを知らないはずのイタコが、母の霊に乗り移って「私はお前の赤子の時にこちらにきたが、1人でよく大きくなったな。お前も立派になって世の多くの人に知られるようになってうれしいぞ」というようなことを言い、梅原はあたり構わずさめざめと泣いたというのである。

  この作品に対する梅原の強い思い入れを感じるのは、円空木地師説をとり、生まれは岐阜県美並村(梅原は羽島市説が正しいとする)とした宗教民俗学者の五木重氏について「円空研究においては五木氏は学者ではなく詐欺師と言わざるを得ない」と断じている点だ。

  学者及び、研究者が大家にここまで言われたら、学者生命は終わってしまう。五木氏は既に故人になっているが、彼の円空に関する研究は無になったといってもいいだろう。この本によって、円空が見直され、あるいは「円空ブーム」が起きるかもしれない。散逸した作品が発見される可能性もあるだろう。300数年前に生きた円空は「なぞの遊行僧」とも言われる。なぞ解きがこれからさらに進むことを期待したいと思う。