小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

450 2つの花束の意味 この時代の明と暗

ふつう、花束は祝いを込めて贈るものだと思う。その意味で、多くの人たちに祝福されて受け取る花束は、文字通り嬉しい。

その半面、きょうの新聞に出ていた小沢民主党前代表の秘書が拘置所から保釈されて受け取った花束の写真は、読者にも違和感が残るものだった。

夕刻、祝福されて長年の職場を去る大先輩の送別会に出席した。贈る言葉と花束贈呈があって本人があいさつした。それは人生を真摯に誠実に生きてきたこの人の思いがこもっていた。奥さんへの感謝の気持ちがにじみ出ていたあいさつを要約する。

「私は家内の希望で武蔵野にマンションを買いました。この35年は1年から4年の周期で転勤生活を続けましたので、家を持つことができませでした。家内はそんな私に一言も文句を言わずに付き合ってくれました。『奥さんの調教がよかったのですよ』と言われたりしますが、今後は家内孝行をしたいと思います」

「家内は結婚前、貿易会社に勤務しており、海外は珍しくないのですが、私は一度も海外旅行をしたことはありません。ですから、これからちょっとの間、家内孝行をするつもりです。その後は、偉そうなことはいいのですが、『赤ひげ』(山本周五郎作、貧乏人の味方の江戸時代の医者)的仕事をしたいと考えています。小さな都市で恩返しをしたい、それがこれからの夢なのです」

あいさつはまだある。しかしここまで聞いて、この人の純粋な生き方を思い、いい人に巡り会ったと思った。「人生は邂逅である」という言葉の通り、前向きな人生の先輩の話を聞いて帰途は足取りが軽いはずだった。

ところが、ふと、新聞の小沢秘書保釈の記事に併用された写真を思い出して、「常識の欠如」を思った。小沢氏に対する東京地検特捜部の捜査は「国策捜査」といわれても仕方がない結末だ。

捜査の網を他の政治家まで伸ばすのだと思っていたが、尻切れトンボに終わった。とはいえ、小沢秘書の保釈に当たって、花束を用意する感覚が私には理解できない。それは裁判段階で検察と真っ向から対決するぞという意思表示なのかもしれない。それでもおかしいと思う。

前者の送別会がさわやかだっただけに、花束写真のイメージは悪かった。ある友人は「それをそのまま掲載するメディアもおかしい」と指摘した。2つの花束を思い浮かべ、こういう難しい時代だからこそ赤ひげ的行い、人に尽くすボランティア精神が求められているのだという結論に達した。