小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1701 朝鮮出兵に巻き込まれた男の数奇な運命 飯嶋和一の『星夜航行』

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 14世紀後半、豊臣秀吉は明(現在の中国)征服を唱えて2回にわたって朝鮮出兵を行い、、明の従属国だった李氏朝鮮を攻撃した。「文禄・慶長の役」(1592~93、97~98)といわれる朝鮮侵略だった。飯嶋和一の『星夜航行』(新潮社)を読んだ。この侵略戦争に巻き込まれた海商の数奇な運命を描いた1100頁(上下巻)を超える壮大なスケールの物語であり、人の運命はその時代から逃れられないこと、為政者の誤った考えがいかに危険であるかを示した作品だ。  

 この長編小説の主人公は、徳川家康の長男、信康の小姓だった沢瀬甚五郎という男だ。甚五郎の父は家康に叛いたため家は没落するが、祖父によって武術を鍛えられた甚五郎は、その才能が認められ信康の小姓になる。しかし家康とそりが合わなかった信康が自刃すると絶望した甚五郎は出奔、その後海商として働きながら豊臣秀吉朝鮮出兵に巻き込まれていく。大きなスケールの物語と書いた通り、当時の岡崎(愛知)、堺(大阪)、山川(鹿児島)、博多(福岡)、名護屋(佐賀)といった国内だけでなく、琉球(沖縄)、呂宋(フィリピン)、そして、朝鮮半島各地(文禄・慶長の役)も主要舞台として描かれる。  

 出版まで9年を要したという。それだけに内容は多岐にわたり、秀吉によって捕らえられ、長崎で処刑されたスペイン宣教師6人と日本人信者ら「日本26聖人」の殉教についても詳しく触れている。中でも精細なのは「文禄・慶長の役」の描写だ。この戦いの中心的役割を担う小西行長の動き、加藤清正蔚山城(うるさんじょう)撤退の際の苦戦、朝鮮水軍の李舜臣の果断な指揮ぶりにも多くの筆を割いている。この戦いで捕虜になった朝鮮側の人々が日本に連行されたことはよく知られている。飯嶋はこの作品で逆の立場の日本人たちの運命を記した。それが後に甚五郎も加わる「隆倭軍」という朝鮮軍に味方する元捕虜による抗戦部隊の存在だ。甚五郎のその後はどうなるか。それは将軍になった家康に謁見するラストシーンで示唆される。  

 秀吉が「文禄・慶長の役」に踏み切った動機についてはさまざまな見方がある。私は以前、参考文献を読み、主君だった織田信長のアジア・明征服の遺志を引き継ぎ、さらに天下統一後の大名らの領土拡大欲を満たし、将来の大名による反乱を防ぐという、自身の野望の実現と配下の大名を抑え込むという「一石二鳥」の効果を狙ったものではないかと考えた。飯嶋は、これについて勘合(正式の使船であることを証明するために明国が出した割り符で勘合府ともいう)を得て、海外交易で得られる富を独占しようとする秀吉の欲望による無謀な出兵との見方をしている。この作品で描かれる秀吉は、強欲で誇大妄想の悪役である。中学校の日本史では、秀吉についてこのような悪役だったと習っていなかった。「下層階級の身から天下人・太閤に上りつめた立身出世の人」という、英雄としてのプラスイメージを多くの人と同じく抱いていた。  

 朝鮮出兵という負の歴史がありながら、日本は近世になって再び朝鮮半島に手を延ばし、植民地化した。それがあるから戦後70年以上が過ぎても、朝鮮半島の人々は日本に対し警戒心を抱き続ける。かつて甚五郎とともに信康の小姓だった磯貝小左衛門も隆倭軍にいて、甚五郎と悲しい再会をするのだが、彼は観世音菩薩に平和への願いを託す。「この戦乱で最も苦しんでいるのは衆生(しゅじょう)下々の民である。この朝鮮でも、日本でも、恐らく明国でも、最も厄災(やくさい)を被るのはいずこによらず民草(民衆)なのだ」という小左衛門の言葉は、この作品で飯嶋が一番書きたかったことだったのかもしれない。それは人類の歴史で共通することなのだが、指導者といわれる階層の多くはその認識がないから厄介なのだ。  

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