小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

978 白磁を守った日本人 浅川巧の生涯を再現した映画

画像 山梨県北杜市出身のある兄弟が、日本以上に韓国で知られているとは私は知らなかった。浅川伯教(のりたか)、浅川巧(たくみ)という兄と弟だ。

  弟の巧の墓は、ソウルの近郊の忘憂(まんうり)にある。その墓には「韓国を愛し、韓国人を愛し、韓国の山と民芸に生涯をささげた日本人ここに韓国の土となる」と書いてある。映画「道―白磁の人」は浅川巧の生涯(1891-1931)を再現した歴史の物語だ。

  兄は師範学校を出てから京城(現在のソウル)の尋常小学校の教師となり、京城の街を歩いていて白い壺、「白磁」(李朝白磁)に興味を持ち、白磁の研究を始める。弟の巧はもともと営林署の職員だが、兄を追うようにして朝鮮に渡り、朝鮮総督府農商工部で植林の研究をする。同時に兄とともに白磁に心を奪われ、白磁の収集と研究を行い、2人は民芸運動を起こした柳宗悦を助け、青磁白磁を展示する朝鮮民族美術館を開設させる。

  映画は、日本による朝鮮統合時代を背景に、朝鮮総督府農商工部・林業試験場に勤める巧(吉沢悠)とそこで働く朝鮮人のイ・チョンリム(ペ・スピン)の友情を描いている。

  日朝の歴史について、私たちはどれほど知っているのだろう。どうも、深く勉強はしていないし、学校の教科書にもそう詳しくは載っていない。日朝の歴史で浅川兄弟が果たした功績は小さくはない。それが、いまも巧の墓が守られている所以なのである。

  ところで、白磁は美しい。現在は芸術的価値が認められているが、浅川兄弟が活動する前は朝鮮の家庭では日用品としてどこの家にもあった。日本へは豊臣秀吉による朝鮮出兵文禄・慶長の役」当時、朝鮮半島からやってきた陶工によって伝わったといわれている。

  鎌倉に住んだ作家の故立原正秋氏は、白磁の壺を愛した。長男の潮氏は「美のなごり」という本の中で、父親と白磁のことを以下のように記している。

 ≪ある冬の夜、大壺を八帖の畳の部屋の中心において正秋といっしょに眺めた。光が壺の胴まであたり、胴上と胴下のふたつの乳白色がこちらの裡(うち)なる 襞(ひだ)に入りこんできた。光の乳白色は美しかったが、蔭の乳白色は深く沈みこんでいた。何百年も経たこの壺にも光と蔭はあったと思う。

  正秋は、ひとこと疲れたと言って書斎に戻って行った。なぜ疲れたと言ったのか私にはわかる気がした。正秋は小説家として焼物を美の対象として眺めていた。それは数寄者とか骨董趣味の人たちとあきらかに見かたが違っていた。焼物を手のなかに入れてなでまわすような所作はあまりしなかった。焼物と一定の距 離をおいていた。気がむくと白磁の壺に春ならば梅を、秋ならば薄などをなげ入れていた。対象物を記憶の残像にしっかりきざみつけておくので、たえず眺める ということはしなかった。

 一定の空間で白磁の壺とあいたいしたとき、壺があまりにも強い視線をはなったので、正秋は疲れたと思う≫

  浅川兄弟や立原氏のように、これほど懸命に白磁と向き合った人はそう多くはいないのではないか。

  この映画の原作である江宮隆之著「白磁の人」(河出書房新社)は浅田兄弟と柳の交流など史実に近い内容であり、一気に読むことができる小説だ。