小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1673 濁世と坊ちゃんの啖呵 漱石の言葉の爽快さ

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 夏目漱石の『坊ちゃん』に有名なたんか(啖呵)が出てくる。「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴」(9章)である。「濁世」(だくせ、じょくせ、ともいう)という言葉がおかしくない時代、坊ちゃんのたんかを思い切り言ってみたいと思う昨今だ。  

 若葉して濁世を遠く哲学道(戸田健) 

 4月末、京都・奈良を旅した知人は、京都の哲学道を歩いてこのような句をつくった。私はこの句を「若葉の季節、多くの先人たちが思索しながら歩いた哲学の道は、濁りけがれた世の中とは無縁のようだ」と受け止めた。西田幾多郎らが散策したことで知られるこの道は、世間の喧騒を忘れさせてくれる存在なのだろう。  

 漱石が義理の祖父に当たるという作家の半藤一利は『漱石先生ぞな、もし』(文春文庫)で、冒頭のたんかについて解説を加えている。半藤解説を中心に手元の辞書を参考にしながら意味を紹介すると――。「ハイカラ」は、明治時代後半の流行語で、洋行帰りのキザな服装の態度を冷嘲した言葉で、生意気で嫌な野郎のことだという。

「ペテン師」は詐欺師のことで、ペテンの語源は中国語のペンツ(骗子)がなまったもの、「イカサマ師」はインチキ師(半藤本24頁より。こうした表現は聞いたことがないというコメントがあった)のこと、大正末期まではインチキが一般化していなかったため、イカサマが使われた。「イカサマ師」は現在も使われている。振り込め詐欺はその典型か。

「猫被り」は猫をかぶるの意味で、本性を隠して柔和そうな様子をしているコスカライ奴の意味だそうだ。「ねこ(わらなわを編んだむしろ)を被る」という意味もある(東京堂出版「故事ことわざ辞典」)。

香具師」はもともと、香具(香道に使う品物)を作ったり売ったりする人のことを指したが、天下泰平の世になって食うに困った浪人たちが荒稼ぎをするため、香具師になりすまし、ニセものの香具を売ったりした。それを江戸の人は野士と呼び、いつしか香具師になった。「路上で手品や居合抜きなどを見せた後、歯磨きの薬類を売りつけた人」(新明解国語辞典)で、現在は的屋という言い方もある。  

 そして「モモンガー」である。ムササビに似た夜行性のリス科の哺乳類で、飛膜を使って、木から木へと滑空する。着物を頭からかぶりひじを張ってモモンガの真似をし、子どもをおどかす奴をモモンガーと呼んだ。一種の得体の知れない化け物を指すようだ。

「岡っ引き」は目明しのことで、お上のご威光を笠に着て威張ったり、裏金をせびったり、銭形平次や半七老人など一部を除けばろくな奴がいなかった。庶民には疫病神みたいな存在だった。「犯罪人を釈放して目明しとした場合が多く、彼らの不法行為に庶民は大いに苦しめられた」(百科事典・マイぺディア)という。  

 最後の「犬」は、本来は最古の家畜で人の役に立つが、なぜか犬がつく言葉は猫同様ほめられるものがない。「恥知らず、軽蔑すべき」もの(明鏡国語辞典)であり、イヌは警官の隠語でスパイもそう呼ばれる。犬侍、犬死、犬の遠吠え、飼い犬に手をかまれる、夫婦喧嘩は犬も食わぬ、などである。  

 21世紀の現在、政界も官界も経済界も、さらに教育界、スポーツ界までもと、広範にわたって日本社会にはこの言葉に当てはまる輩が横行している。濁世なのである。どさくさ(急の出来事や緊急の用事などのために、ふだんの秩序が失われていること=新明解国語辞典=を指すが、火事場泥棒も同じ意味だ。日葡辞書=日本語をポルトガル語に解説した辞典=には、ドサクサスルという言葉がある=広辞苑)に紛れて悪巧みをする人間も目にする。

 そこで坊ちゃんのたんかを口にしてみると、威勢がよくて少し気持ちが晴れた。漱石先生に感謝である。  ちなみに、このたんかを現代風にすると「横文字かぶれの、振り込め詐欺師の、記憶なくしエリート野郎の、ハッタリ屋の、ITオタクの、鵺(ぬえ)同様の、官邸付き役人たちの、忖度ばかりの腰抜け同然な奴」とでも言おうか。  

1399 飽食の時代を考える 首相動静とミンダナオの事件