小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

951 桜の木の下に立ちて 花を楽しむ季節に・・・

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「原爆の灰を思い出すから桜の花は嫌いである」という文章を書いたのは評論家の多田道太郎だった。しかし、その後、多田は奈良・吉野山の桜を見て、心に染みたと語ったそうだ。同じフランス文学者で多田の後輩の杉本秀太郎が「花ごよみ」にこう書いている。

 桜の花は、日本人には特別な存在だ。しかし素直に桜を愛でることができない時もある。 終戦直後はそうだっただろうし、3・11を経験した昨年の桜の季節も心は弾まなかった。ことしは3月になっても、寒い日が続き、桜の開花は1週間以上遅れた。そしてこの日曜日は、天気もよく絶好の花見日和になった。

 近所の桜の名所に行ってみると、少しだけピンク色をした花びらが青い空に映えていた。 穏やかな気持ちで花を見つめた。多田と同じように、遊歩道の両側に咲き誇るソメイヨシノの花は心に染みた。 日本も海外も含めて、花が咲く樹木は少なくない。しかし、桜のように、花の下で多くの人が集まり、楽しむ光景はそう多くはないのではないか。

 この冬みたいに寒い冬が続くと、春の到来が待ち遠しい。梅が咲き、ハクモクレンが花弁を開き、さらに沈丁花がほころび、ついに桜が咲く。だれでもが外に出たいと思う季節がやってきたのである。 だが、東日本大震災被災地の人たちは、これから迎える桜の季節を楽しむことができるのだろうか。

 詩人の萩原朔太郎「桜」という詩がある。かみしめたい詩だ。 桜の下に人あまたつどひ居ぬ なにをして遊ぶならむ。 われも桜の木の下に立ちてみたれども わが心は冷たくて 花びらの散りおつるにも涙こぼるるのみ いとほしや いま春の日のまひるどき あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。(純情小曲集)

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(写真は、1枚目が船橋市の海老川ジョギングロード、2、3枚目は散歩コースで見た桜)