小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1425 山桜に寄せて 詩「さざめきの後で」

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 季節外れだが、先日、千葉県佐倉市のDIC川村美術館の広大な敷地内で桜が咲いているのを見た。狂い咲きではなく、「十月桜」か「冬桜」という種類らしい。桜の代表といえば、もちろん染井吉野とだれもが思い浮かべるだろう。だが、かつては「染井吉野は最も堕落した品種であり、本来の桜は山桜や里桜である」と主張した研究者もいるし、現在も山桜の方が好きだという人も少なくない。先日届いた詩誌『薇』の中でも、一人の詩人が山桜への思いを書いている。

 桜の聖地といわれる奈良・吉野山の桜はほとんどが山桜(シロヤマザクラ)である。ダムに沈む運命にあった荘川桜(岐阜県)を救った笹部新太郎(水上勉の小説『桜守』のモデル)は、桜とは山桜であるという信念を持ち、全国の桜の大半が染井吉野に占められている現状を嘆き「このままでは日本の桜は滅びてしまう」という危機感から山桜苗の育成に生涯をささげた。

 ところで『薇』は私の知人である飯島正治さんらが2009年に創刊した40頁前後の詩誌で、飯島さんの死去後も秋山公哉さんら9人の同人で運営している。近刊の13号では、ふくもりいくこさんの「さざめきの後で」という詩が冒頭に載っている。

 染井吉野は 

 花冷えの中を咲き継ぎ 

 華やかな装いを脱ぎ散らしている

 

 さざめきの後で 

 温もりに包まれながら 

 朝の雫色を潜ませ 

 柔らかに咲き初めるひかえめな桜

 幽かな紅をさし 里山の風に揺れる

 

 この季節が嫌い

 春の嵐のように 鋭く呟く

 最愛の人を失くした季節に

 思いを巡らせないまま

 一昔前 友の名をつけ

 山桜を植えてしまった

 

 一人での子育ては

 切り立つ山々の険しい分岐や

 分水嶺の流れの方向を一人で選び

 決断してきたということ

 

 部屋に掲げられた写真の

 凛々しいまなざしの先は 三十数年いつも

 友へ注がれていたにちがいない

 葉と花が寄り添い

 同時に咲く山桜の季節は短い

 

 春の光に揺れる里山には

 人知れず

 頑な時の封印をはずし

 若者と乙女が おおらかに

 億年の愛を歌い交わしている

 

 ふくもりさんの詩は、哀切さを感じる。染井吉野が散ったあと、ひっそりと咲く山桜。友の名をつけた木だ。その友は夫を亡くし一人で子どもを育てる……。山桜の花に寄せて友への思いをつづっている詩といえよう。

 前回のブログで紹介した高橋郁男さんの詩とは何かを当てはめると、ふくもりさんの詩は「人の生の深奥までも映し出す」ものと受け止めることができる。 それにしても、詩とは何だろうかと思う。9人の詩を読んでそれぞれの人生を感じた。そして、「人生は一行のボオドレエルに若かない」という芥川龍之介の言葉(高橋さんの詩論より)を反芻した。

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555 詩人が考える言葉とは 詩集「薇」から

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829 「ここは私が生きてきた場所なのだ」 詩人の声を聞く

907 東日本大震災と文学・詩 比喩が成り立たない

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