小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

940 津波~仮設に住宅に暮らして ある高齢者の1年

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 3月に入って、被災地を歩いた。宮城県東松島市仮設住宅に暮らす一人の高齢者から話を聞いた。それは、絶望と希望という言葉に象徴される話だった。大津波に自宅が襲われ、長年連れ添った妻を亡くした宮城県東松島市の武田政夫さん(76)だ。

 武田さんのこの1年を紹介する。明日で、あの日から1年になる。

≪あの日のこと≫ 

 3月11日のことはよく覚えています。地震が起きた時、私は東松島市野蒜の自宅でテレビを見て いました。家内(千代子さん=72)は私の隣で病院に持っていく雑巾を縫っていました。家内は大病した時に命を助けてもらったお礼にと、老人介護で使う雑 巾を差し入れていました。午後2時46分に大きな揺れがあり、これは津波が来ると思った私は、家内と一緒に家から250メートルのコミュニティセンターに 避難しました。

 当時、離れて住んでいる二男の家の犬(7歳の雄のコーギー)を預かっており、家内は犬もと言いましたが、いまは犬どころではないと2人で逃 げたのです。前の副市長さんの家にも声を掛けましたが、大丈夫なので避難しないと言ってついて来ませんでした。このお宅は3人全員が亡くなってしまいまし た。

 センターの下には鳴瀬川が流れており、津波があったらここから水が入ってくると思い、入り口の戸を閉めてくださいと叫びました。しばらくして、案の定津波 が来ました。みるみるうちに水が増え、一緒にいた2人のおばあさんがその渦に巻かれて流されました。2人は助かりましたが、水は次第に増え床から1メート ルまで水に浸かってしまいました。

 これ以上来たならおしまいになる、この世の終わりだ、助けてくださいと念仏を唱えました。 それ以上水は増えませんでした が、このままでは低体温症になると思い、居合わせた区長さんに何とかしてほしいと頼みました。区長さんはどこかに出かけて行きましたが、なかなか戻ってき ません。

 戻ってきたのは夜の8時ごろでした。がれきで歩くのが大変だったそうです。その結果、軽トラックで隣の地区のコミュニティセンターに移ることにな りました。ここは海から離れていて安全なところでした。 水が引いて少し落ち着いた時、最初に手を取り合って避難した家内がいないことに気がつきました。

 避難した人に聞いて回ると、中には犬を抱いた人もおり、そ の人が「私は犬を家に置いてきたの。かわいそうなので迎えに行く」と言って、家内が戻っていくのを見たと教えてくれました。津波で私の家は流され、犬を連れに戻った家内は逃げることができなかったのだと思います。気づいていれば止めたのですが…。残念でなりません。

 家内は現在も見つかっていないのです。私 は65歳まで大工の仕事をしており、自分の家や地区の10数軒を建てましたが、すべて津波で失ってしまいました。 最初の避難所で一度流されて助かったおばあさん2人は歩くのもやっとでした。

 私たちは「がんばろう」と声をかけて抱きかかえるように軽トラックに乗せまし た。外は雪が積もっていて、がれきやヘドロがあり、車はスリップしながらようやく脱出したのです。移った避難所では低体温症になったおばあさんたちのマッ サージを続けました。

≪海外の若者たちと≫

 5月14日から仮設住宅に一人で住んでいます。息子が2人いて塩釜に住んでいます。孫も4人おります が、息子の家族に迷惑をかけたくないのです。一人でも寂しいことはありません。仮設の人たちが「大丈夫ですか。どうしていますか」と毎日声をかけてくれる のです。安心して暮らすことができるのは、うれしいことです。

 天気のいい日には、必ず30分から40分の散歩をしています。 大震災後、忘れることができない出会いがありました。海外の若者が激励に来てくれたのです。一人はカナダの若い女性で、もう一人はイギリスの青年でした。

 昨年12月20日のことでした。通訳の日本人の女の人と一緒にエリザベスという女の子が私の仮設にやってきました。 詳しい住所は聞いていませんが、ロッキー山脈の東側のオーロラが見える街に住み、父親は香港系で税務署員、母親はフランス系で幼稚園の先生をしていると聞きました。

 エリザベスは18歳で高校 を卒業しましたが、そのまま進学はせずに日本に来たようです。被災地の状況や被災者の生活実態を見たいと思い、こちらに入ったそうです。 私は行方不明のままの家内の写真を仏壇に飾っています。それを見たエリザベスは、写真に向かって手を合わせてくれました。そのあと急にいなくなり、どうしたのだろうと思っていると20分くらいして花を買ってきて仏壇に飾ってくれたのです。

 それがうれしくて言葉も出ず、私は胸が張り裂けるほどでした。その 時、エリザベスを「日本人よりも日本人らしい女性だ」と思いました。彼女が通ってきたのは断続して3日間でしたが、クリスマスイブの前日の夜には、自分で つくったという大きなケーキを3つ持ってきて、仮設の集会場でみんなを慰めてくれたのです。 

 最後の夜、部屋に呼んでお礼にカキと豆腐を入れた味噌汁とアサリ汁をつくってふるまうと、おいしいといって食べてくれました。一緒に北斗七星を見ながら英 語ができない私が「あれがセブンスター」と教えると、北斗七星だと分かったようです。

 別れる時には「おじいちゃん、とてもさびしい」と言ってくれました。 エリザベスはネパールの子どもたちに英語を教えるのだと、カトマンズに行きました。その後はがきが来て、ことし6月ごろにカナダに戻るときは日本に寄りたい、お じいちゃんをカナダに連れて行きたいと書いてありました。孫のようなエリザベスの気持ちが、うれしくてなりません。

 エリザベスのあと、1月にはイギリスからロバートという19歳の大学生、それから明治大学の2人の女性がきてくれ、友達になりました。私はロバートを女川 まで案内し、被災の現状を説明しました。ロバートは熱心に話を聞き、今年8月に小さな教会で結婚式を挙げることをうれしそうに話してくれました。

≪いま思うこと≫

 数日前、津波に襲われた元の家に行ってきました。そこは更地になっていました。自力で家を作るのはもう無理です。息子たちに迷惑をかけるのはできないので、仮設住宅から出るときには高台に建築される計画の公営住宅に住みたいと考えています。

 先日、仮設住 宅の人たちに配ろうとしてペットボトルの箱2つを担いだ時、左肩を痛め近く仙台の病院で手術することになりました。 1カ月の入院が必要といわれており、3 月末には明治大学の学生2人が来てくれることになっていましたが、心配をかけないようありのまま説明したいと思っています。

 エリザベスは、カナダに戻って大学で法律を勉強し、世の中の役に立つ人間になりたいと話していました。彼女なら、その夢がかなうと信じます。エリザベスや ロバート、明治大学の学生ら、見ず知らずの若者がなぜ私のところに来て激励してくれたのでしょうか。それは、一人でいる私を家内が元気でいるようにと後押しをしてくれているからなのかもしれません。きっと、そうだと思うのです。

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 東松島市宮城県中部に位置し、南側が太平洋に面している。2005年に桃生郡矢本町鳴瀬町が合併して誕生した。武田さんが住んでいた野蒜地区は鳴瀬川の河口にある。 市のホームページによると、東日本大震災では死者1006人、行方不明57人、家屋の全半壊が全世帯の73%に当たる11029戸(2月28日現在)という甚大な被害が出た。

 写真1、野蒜地区を流れる鳴瀬川。岸の松は斜めになっている 2、武田さん