小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

849 不文の約束ごとから遠い日常なのか 被災地の木を使った平泉大文字

 民俗学者宮本常一が「不文の約束ごとが守られることで民衆の社会は成り立つものである。人が人を信じられるのである」という言葉を残したことはこのブログでも紹介したことがある。しかし、昨今、この約束ごとが守られないことが多すぎる。権謀術数をめぐらせ、裏切りが横行する政界の姿が、私たちの日常にも入り込んでしまったのかと思う。

  東日本大震災津波で流された岩手県陸前高田市景勝地高田松原」の松の木をめぐるニュースを見て、こんなこと思った。経過はこうだった。京都市の伝統行事「五山の送り火」の「大文字」で高田の松が燃やされるはずだったのに、「放射線汚染が心配だ」という市民の声でいったん中止が決まった。

  これに対し抗議が殺到したため、京都市は再度受け入れを表明したのだが、新たに取り寄せた松の薪の表面から放射性セシウムが検出されたとして、松の使用を断念。これを聞いた千葉の成田山新勝寺が9月25日の「おたき上げ」で、祈願成就のための護摩木と一緒にこの松を炊くことにしたというのである。

  私は、一連のニュースを見て京都の思い上がりと排他性を感じた。「送り火に使ってやりますよ」と上からの目線で陸前高田の人々をぬかよろこびさせ、その後二転三転した末に結局被災地を失望させ、原発事故の風評被害を助長させる結果になった。

  世界遺産に指定された平泉では、今夜駒形峯の「大文字焼き」で被災地の倒壊した家屋の木材を集めて送り火として燃やした。これだって、放射能に汚染されているはずだ。その映像を見ていて、東北の意地を感じた。

  私は現代日本から「ヒューマニズム」という思想が失われたと思い込んでいた。五山送り火騒動だけならそれが間違いでないと確信したかもしれない。しかし、そうではない。被災地で懸命に働くボランティアからヒューマニズム精神を感じることができる。医師を騙った詐欺師や被災地を荒らす盗人のような犯罪者もいるが、ボランティアたちの行為は、だらしのない政治を十二分に補っている。

  菅首相が今月限り(?)でやめることになったようだ。菅氏が率いる民主党は国民との約束を破り続けている。自民党に失望した国民は公約に新鮮さを感じて民主党を第一党にした。だが、鳩山政権、菅政権とも国民の期待に答えることができず、右往左往し続けている。次の政権は自民、公明との「大連立」が現実になりつつあるという。政界には「不文の約束ごと」は無理なのだろう。