小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

832 暗い街に住む魔物とは 痛んだ被災者の心を癒すには

 東電福島第一原発事故の収束の見通しさえはっきりしないのに、海江田万里経済産業相が突然、全国の原発の安全宣言を行い、再稼働を促したことに対し、原発を抱える知事たちから批判、反論が続出している。原発がない大阪の橋下徹知事でさえ「無責任だ。経産省の皆さんを強制的に原発の周りに住ませたらいい」と、経産省の判断が時期尚早だと批判したという。

  この話を聞いて、図書館で見た原発に関する地方紙の記事(1975年1月)を思い出した。この記事は原発建設の実情を紹介し、経済優先の電力会社、国の姿勢に疑問を投げ掛け、「安全と言いながら、東北の人が少ないところに建設しようとするから疑惑が起こる。一つ首都圏に造ったら・・・」という学者の声を紹介していた。早くから理論物理学者の武谷三男氏が「試作段階に過ぎない原発を争って建設するのは極めて異常と指摘していた」ことも取り上げており、武谷氏の不安は現実のものになってしまったのだ。

  橋下知事の言動には賛成できないことも少なくない。しかし、この海江田批判は正論だと思う。「福島の事故の収拾もつけられていない日本政府が『安全だ』というのはどういう思考回路なのか。安全だとごまかすのではなく、電力が足りないからリスクを負ってほしいという説明をすべきだ」と話したという。

  避難所暮らしを終えることができるのはいつの日になるのか、全く予測のつかない多くの人たちは海江田発言に「ふざけるな」と思っただろう。この発言の背景には、電力需要のピークを迎える時期を控え、経済界から電力不足が深刻化した場合、産業の停滞・空洞化が起きるとして原発の再稼働を求める声が起きていることが指摘されている。国民の生命を守ることよりも、経済優先の姿勢といっていい。

  かつて原発問題は推進派、反原発派に分かれていた。しかし福島の事故という深刻な事態を受けて、その中間ともいえる脱原発の動きが次第に力を増している。地方を預かる首長の間からその声が次第に大きくなっている。

 イタリアが国民投票原発の再開をしないことを決め、ドイツに続いて脱原発へと踏み出した。テレビを見ていたら、女性が「しっかりした技術を持つ日本でさえ、福島のような事故が起きるのだから、イタリアでは原発の再開は認められないわ」と話していた。素直な気持ちであり、これが現在の世界の大勢のように思える。

  中原中也賞を受賞した福島在住の詩人、和合亮一ツイッター原発事故をめぐる人たちの思いを発信している。その一つ。「あなたは 愕然とした/暗い街 真っ暗な 通り/この街には 違うものが 住んでいると」。このように痛んでしまった人々の心を,逆なでするような海江田発言からは、被災者を思いやる一かけらも感じられない。こうした現状で、原発被災者の心を癒すことはできるのだろうか。甚だ心もとないというのがいまの結論だ。