小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

578 ナポレオンに翻弄された女性の生涯 「マリー・ルイーゼ」

画像「会議は踊る されど進まず」という言葉は、1814年から15年にかけ、ナポレオン失脚後のヨーロッパのあり方を話し合ったウィーン会議に出席したはオーストリアのリーニュ将軍(あるいはフランスのタレーラン外相の言葉ともいわれる)が残したものだ。

  昨年12月、デンマークコペンハーゲンで開かれた地球温暖化対策を議論する「COP15」の玉虫色の結論に失望し、国際会議の難しさを感じ、リーニュの言葉を思い出した。塚本哲也著「マリー・ルイーゼ」は、ウィーン会議を挟んで、政略結婚でハプスブルク家からナポレオンに嫁いだルイーゼの生涯を通してヨーロッパの一時代を記した上下の長編だ。

  ヨーロッパ中・近代史でハプスブルク家の占める位置は大きい。ナポレオンの2番目の妻となったマリー・ルイーゼもハプスブルク家に生まれた。フランス・ナポレオンとの戦争に負けたオーストリアのフランツ皇帝は外相・メッテルニヒと相談のうえ愛娘のルイーゼをナポレオンの要請に応じて、後継ぎの産めない最初の妻の後沿いにする。ルイーゼはいわば「売られた花嫁」だった。

  古今東西、政略結婚は珍しくはなく、日本でも同じような例は数多い。それでも、ナポレオンとルイーゼの仲はよく、男の子も生まれる。しかし戦争の天才としてヨーロッパに君臨したナポレオンもロシア遠征の際、ロシア側の焦土作戦と厳しい寒さとの戦いに敗れる。ちなみにチャイコフスキーが作曲した「祝典序曲1812年」は、ナポレオンとロシア軍攻防をロシア側の立場で描いたものだ。

  ナポレオンは、流刑になったエルバ島から抜け出して各国と戦うが、再び敗戦、セント・ヘレナ島に幽閉され、この島で病死する。ルイーゼはナポレオンとは4年の生活で、ナポレオン没落後、イタリア・パルマ公国の女王になる。彼女はナポレオンを慕いながら、公国の首相であるナイペルクと結ばれる。フランスでは、ナポレオンの妻となりながら、夫の没落後はパルマ公国の女王になったルイーゼの評判は芳しくないという。

  しかし、塚本はこの本の中でルイーゼは女王になったパルマ公国で、国民から慕われ愛されたと記している。人の評価は、それだけ難しい。

  塚本はハプスブルク家最後の皇女の生涯を描いた「エリザベート」でヨーロッパの近世を再現した。今回の作品はさらに時代を巻き戻して、1人の女性の生涯を通じて戦乱時代のヨーロッパを描写したといえる。

  セント・ヘレナ島に流されたナポレオンは「回顧録」を残した。その中で「遠からずヨーロッパは正真正銘の統一国家となり、だれもがどこを旅しても共通の祖国にいると実感するようになるだろう・・・余の失墜とこれに伴う体制の消滅後、この体制に代わる均衡を全ヨーロッパにもたらし得るのは、諸外国の集合体、すなわちヨーロッパ諸国連合以外にない」と述べている。

  約200年前に現代のヨーロッパの姿を予測したナポレオンは、先見の明があったのだ。歴史には「IF」はないが、あえていえば彼が平和志向をしていれば、ヨーロッパの歴史は確実に変わっていたはずであり、ルイーゼの生涯ももう少し幸せだったかもしれない。