小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1563 ナチに捕えられた画家の大作 ミュシャの『スラヴ叙事詩』

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 チェコ出身でよく知られているのは、音楽家のアントニン・ドヴォルザーク(1841~1904)である。音楽評論家の吉田秀和は「ボヘミアの田舎の貧しい肉屋の息子は、両親からほかに何の財産も与えられなくても、音楽というものをいっぱい持って、世の中に生まれてきた」(新潮文庫『私の好きな曲』)と書いている。吉田が高く評価したドヴォルザークに比べれば、グラフィックデザイナーで画家のアルフォンス・ミュシャ(1860~1939)の知名度はそれほどではない。だが、吉田風にいえば、ミュシャは美術という才能を持ってこの世に誕生した天才の一人だった。  

 国立新美術館で開催中の「ミュシャ展」を見た。同じ美術館で、前回書いた草間彌生展が開かれているが、どちらも甲乙つけがたいほど大勢の入場者でにぎわっていた。私はこれまでミュシャの大作『スラヴ叙事詩』の存在を知らなかった。たまたまNHKの特集番組を見てこの画家に興味を抱いた。  

 ミュシャはポスター制作者として一世を風靡した。ハプスブルク家が支配する旧オーストリア帝国モラヴィア・イヴァンチツェ(現在はチェコ)で生まれ、子どものころから絵がうまかった。中学校を中退、働きながら、あるいはパトロンを得てチェコのデザイン学校やミュンヘン、パリの美術学校で学んだ。世に出るきっかけになったのは、1895年に制作した舞台女優のサラ・ベルナールの芝居用ポスター「ジスモンダ」だった。たまたま年末だったため著名な画家は休暇でパリを留守にしていて、ミュシャが頼まれた。華やかなポスターは評判となり、ミュシャアール・ヌーボー(19世紀末から20世紀初頭にかけヨーロッパを中心に開花した「新しい芸術」を意味する国際的美術運動)の寵児になる。  

 しかし、オーバーワークに陥ったミュシャは1910年、突然チェコに帰国。プラハチェコ民音楽の父といわれるベドルジハ・スメタナ(1824~1884)の交響詩「わが祖国」の演奏を聴いたミュシャは、絵画によるチェコの歴史を残そうと決心し、16年の歳月をかけて『スラヴ叙事詩』に取り組み、20枚の大作(例えば①の『原故郷のスラヴ民族』6・1メートル×8・1メートル)を完成させたのだ。いずれもが演劇を思わせるストーリー性豊かな絵画であり、何かを訴えるようにこちらを見つめる民衆の眼差しが印象的だ。  

 ヨーロッパの中央に位置するチェコは他国に支配され続けた歴史がある。第一次大戦後にはハプスブルク家が倒れて独立を果たすのだが、続いてはナチスドイツが侵攻、ミュシャゲシュタポ(秘密国家警察)に逮捕されてしまう。ミュシャの絵が「愛国心を刺激する」という理由だったといわれる。釈放されたもののミュシャは獄中での厳しい尋問によって体調を崩し、この世を去る。78年の生涯だった。  

 ナチの崩壊後、チェコは独立したが、ソ連支配下による共産党政権が続いたため、「スラヴ叙事詩」に日が当たるまでは長い時間を要した。チェコには吟遊詩人が語り継いだ伝説があり、『スラヴ叙事詩』は実際の歴史と伝説双方を参考にして存在感のある大作になった。  

 アニメ作家、人形作家、絵本作家として知られるイジィ・トルンカ(1912~1969)もチェコの人で、代表作である『チェコの古代伝説』は100体以上の人形と音楽を使って試練に耐えながらチェコという国をつくり、外敵から守ろうとする人々の姿を描いた人形アニメである。それは『スラヴ叙事詩』に共通するテーマである。スラヴはこの日本から遠い。しかし、その歴史に触れることは、この世界に多様な人たちがいることを実感できるのだ。

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写真 1、イヴァンチツェの兄弟団学校(1914年610×810センチ) 2、展示場外のポスター 東ローマ皇帝として戴冠するセリビア皇帝ステファン・ドゥシャン(1923年405×480センチ) 3、スラヴ民族の賛歌(1926年未完成480×405センチ)=いずれもプラハ市立美術館所蔵