小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1421 マルタと沖縄と ミニ国家が歩む道

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 最近マルタ島を旅した知人がいる。人口42万人、国土面積は東京23区の半分に当たる316平方キロという小さな島国(マルタ島やゴゾ島、コミノ島からなるイギリス連邦マルタ共和国)である。 地図で見ると、長靴のような形をしたイタリアのつま先の位置にシチリア島があり、さらにそこから離れた豆粒くらいの島がマルタだ。

 50回目の結婚記念日(金婚式)を兼ねた気楽な観光旅行のはずが、「沖縄独立」の可能性を探るという課題を抱えた旅だったという。 沖縄の米軍普天間基地辺野古移設問題で、沖縄県と政府が激しく対立している。その隔たりは大きい。民意を大事にすると言いながら政府は地元沖縄の声を無視して、米国にすり寄る姿勢しか見せていない。沖縄独立論が出てくる所以だろう。

 知人はマルタに行く前に『地中海の小さな国 マルタに魅せられて』(石川和恵、晶文社)という本を読んだ。精神科医の夫とともに2年間マルタで暮らした著者の生活記録だが、著者は「沖縄の半分程度の国土、主要産業が観光という国が独立してしっかりやっている現状を見て沖縄の独立も決して不可能ではない」と書いており、それが知人のマルタへの旅のテーマになったのだという。

 手元にあるガイドブックにはマルタの歴史がさらりと以下のように書いてある。

「十字軍遠征で重要な役割を果たした聖ヨハネ騎士団イスラエルギリシャロードス島からマルタに拠点を移したのは1530年。その後マルタ騎士団と呼ばれるようになり、オスマン・トルコ帝国との間で攻防戦を繰り広げた。イギリス支配下にあった第二次大戦中、敵国からの攻撃に耐え、国を守り通した国民の努力を称えて、イギリス国王ジョージ6世からマルタの国と全国民に対して十字勲章が授けられた。その十字勲章は現在のマルタ国旗に描かれている」(ラテラネットワーク編『徹底ガイド南イタリア』より)

 知人の目にマルタはどう映ったのか。

 マルタは何と言っても観光が主要産業で外国人観光客が多く、ハガール・キム神殿(マルタ島)やジュガンティーヤ神殿(ゴゾ島)では、英語、イタリア語、ロシア語、ドイツ語などのガイドの説明が交錯していたという。おもてなしの日本の考え方に対し、国中が観光スポットのマルタは洗練した観光地という印象を受け、街は清潔であり、路地裏でもたばこの吸殻やごみは見かけなかった。住民や店員の応対も丁寧で、博物館も混雑しないよう入場制限を小刻みにやっていた。観光地の物売りも日本のようにしつこくないし、大きな音で民謡を流すようなこともない。

 マルタはカルタゴ、ローマ、イスラム、スペインなどの支配という長い歴史があり、さらにマルタ騎士団の拠点となり、前述のオスマン・トルコとの攻防、ナポレオンによる占領、イギリスの支配を経て1964年に独立した。1974年に英連邦のマルタ共和国になり、ヨーロッパのリゾート地として観光に活路を開いている。現在シリアなどからの3万人を超える難民が暮らし、その余波で家賃が高騰しているのだという。

 難民は教育費が無料で、それまでの年収に応じて生活費が2年間支給される。いずれはドイツや北欧へと移る希望があっても当面は生活のためアパートを借りてマルコにとどまる。しかしオーナーは貸すのを渋って高い賃料を提示する。それでも入居するため全体の賃料高騰につながっており、いずれイスラム化する地区も出るのではないかという声もあるという。

 マルタを見たエコノミストである知人は多角的に問題点を上げて沖縄が独立国として自立できるか考えてみたが、その結論は多くの障害があって悲観的だ。そうした障害を乗り越えたとしても県民の独立に対する情熱と一致団結が必要だが、140万県民の意思統一は困難―というのが知人の見方である。それにしても、沖縄独立論が出るほど政府と沖縄の距離が遠いことに、私自身は絶望に似た気持ちになる。

 写真 紺碧の地中海(記事とは関係ありません)