小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1893 東北から九州への想像の旅 潜伏キリシタンを描いた『守教』を読みながら

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 私の地図を見ながらの想像の旅は続いている。今回は、東北から九州へと移る。潜伏キリシタンあるいは隠れキリシタンという言葉がある。江戸幕府が禁教令を布告し、キリスト教徒を弾圧した後も、ひそかに信仰を続けた信者のことで、2018年6月、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に認定された。この言葉を聞くと、潜伏キリシタンといえば長崎や天草(熊本県)を連想する。しかし、この地方以外の福岡県筑後平野北部にもキリスト教の信仰を守り続けた人々がいたのである。

 箒木蓬生の小説『守教』(新潮文庫)は、この地区をモデルにしている。福岡県三井郡大刀洗町小郡市久留米市に隣接し、かつて高橋という村だったこの町に、国の重要文化財、今村天主堂がある。この小説は戦国キリシタン大名大友宗麟の命を受け、筑後・高橋組(高橋村=現大刀洗町)の大庄屋になる一万田右馬助の代から始まり、その後のキリシタンへの弾圧時代のひとりの前庄屋の殉教を経て、明治初期に禁教が解かれ、さらに今村カトリック教会(天主堂)が建てられるまでの「今村信徒」の300年の歴史を克明に追った大河小説だ。  

 小説はフィクションだから、史実と異なる設定もある。伊達騒動を描いた山本周五郎の『樅の木は残った』は、その典型といえる。史実では評定の場で反対派を殺害、悪人といわれる原田甲斐だが、周五郎は独自の解釈で自らを犠牲にして伊達藩を救った人物として描いた。この小説を原作にしたNHKの大河ドラマが放映されたこともあり、原田甲斐=悪人というこれまでの見方は大きく変わった。

『守教』のクライマックスは、高橋組の大庄屋、一万田音蔵の弟で今村の前庄屋、道蔵の殉教シーンだ。郡奉行から棄教を迫られた際、道蔵は兄にこんな申し出をする。「高橋組の百姓は全員棄教したばってん、ひとりだけ不届き者がいる。この不届き者をどうか成敗して下さいと、大庄屋、そして今村の庄屋(自分の長男、鹿蔵)が訴えるこつによって、公儀の眼はがらりと変わるはずです。もうこれ以後、いらぬ詮索はせんようになるでっしょ。高橋組に限って信用できるち、公儀は思うでっしょ」  

 自身が犠牲になって潜伏キリシタンの村を救おうという考えを通し道蔵は、殉教し磔刑になる。史実では、今村で殉教したのはジョアン又右衛門(後藤寿庵)という農民だった。五島の宇久島で受洗後、伊達政宗の庇護の下、布教活動をしていたが、1620(元和6)年徳川幕府の禁教政策により奥州を追放された後藤寿庵は、九州に戻って今村の農民となり、周辺の村でひそかに活動を続けた。しかし、久留米藩に見つかり磔刑になった。小説はこうしたジョアン又右衛門の殉教をヒントに、作品の山場として今村の前庄屋と兄の大庄屋のやり取りを描いたのだろう。  

 ジョアン又右衛門の墓があった場所に木造の教会が建てられたのは、1881(明治14)年のことだ。現在の建物は1913(大正2)年に完成したロマネスク様式赤レンガ造りで、2017年国の重要文化財に指定された。私は久留米絣で知られる久留米市にはかなり以前、仕事で行ったことがあるが、隣接する大刀洗町にこうした潜伏キリシタン地区があったことは知らなかった。  

 この小説の作者、箒木は小郡市の出身だそうだ。中学時代自転車で今村を通り、どうしてこんな田舎に立派な教会があるのか不思議に思っていたという。箒木は近年、故郷を舞台にした久留米藩三部作を書いている。その一つとしてこの作品に取り組み、少年のころの謎が解けたと吉川英治文学賞の〈受賞のことば〉で明らかにしている。今村信徒が発見されてから、今年で153年になる。  

 さて、想像の旅である。この作品の主舞台は大刀洗町だが、隣接の秋月(朝倉市)日田(大分県日田市)も出てくる。さらに潜伏キリシタンが多くいた長崎・浦上、「生ける車輪」と呼ばれるほど、九州各地で精力的に布教活動をしたルイス・デ・アルメイダの布教地(川尻=熊本市南区川尻、高瀬=熊本県玉名市高瀬町、口之津長崎県南島原市、度島、平戸=いずれも平戸市、博多、名護屋佐賀県唐津市、五島=長崎県五島市、天草=熊本県天草市)といった地名を地図でたどっている。そして、五島・福江島にひっそりと建つ木造の教会を思い出している。半泊(はんどまり)教会だ。そこでは、今も地元の人たちが敬虔な祈りをささげているに違いない。

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 写真 1半泊教会、2福江城、3大瀬崎灯台(いずれも長崎県五島列島福江島にて)  

 ※注 アルメイダについて、別の媒体に書いた記事を以下に再掲します。  

 大分市大分県庁近くにある遊歩公園には、彫刻や記念碑が点在する。朝倉文夫北村西望といった日本を代表する彫刻家の作品とともに、戦国時代末期に日本を訪れ、西洋医学を日本に紹介したポルトガル人、ルイス・デ・アルメイダにまつわる2つ記念碑が建っている。「西洋医術発祥記念像」(彫刻家・古賀忠雄作)と「育児院と牛乳の記念碑」(同、圓鰐勝三作)である。アルメイダの功績はこの2つの彫刻からもうかがえる。ハンセン病患者も診療し、日本の医学の発展に大きく寄与したアルメイダとは、どんな人物だったのだろうか。  

 ポルトガルについて、知人は「かつて地球の裏側まで船を操った冒険者たちが、いまはその残照を浴びて黙々と座っている街」と指摘している。日本とは縁が深いこの国はいま、かつての大航海という栄光の時代の輝きはない。ユーロ圏でギリシャが経済危機に陥ると、次はポルトガルとスペインが危ういと伝えられているほどだ。  

 近代ポルトガルの最大の詩人といわれるフェルナンド・ペソーア(1888年—1935年)は「私たちポルトガル人は、子どものころ学校でポルトガルの過去の素晴らしい瞬間について学ぶ。それは何世紀にもわたる大航海と、海に浮かぶ魅惑的な島々の物語であり、ポルトガル人の喜びと悲しみの歴史である」と書いている。アルメイダも、ポルトガルが元気だった大航海時代の最中、日本やってきたのだった。当時の日本は、長い戦乱で荒れ果てた貧しい島国だった。  

 史実によれば、アルメイダは1525年ごろリスボンで生まれ、1546年に医師免許を取得してから世界へ雄飛しようと、インドのゴア経由でマカオに渡り、貿易の仕事で1552年に来日した。この後、日本とマカオを往復して商才を発揮する。日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの仕事を継承して、布教活動をしていたイエズス会の宣教師、コスメ・デ・トーレス神父と出会ったアルメイダは、立ち遅れていた日本の医療への支援を考え、豊後(現在の大分市)に私財を投じて育児院を建てる。  

 当時の日本は、戦乱のため、貧窮の果てに生まれたばかりの赤ちゃんを殺してしまう間引きが横行しており、こうした実情にアルメイダは衝撃を受け、少しでも間引きの犠牲者を少なくしようと考えたのだ。この育児院では牛も飼育し乳母も置いて、子どもたちを母乳と牛乳で育てたという。アルメイダはさらにトーレス神父と協力し、豊後の領主、大友宗麟から土地の提供を受け1557年に日本初の洋式の病院を建設した。ここには外科、内科のほかに当時としては画期的なハンセン病棟もあり、アルメイダは外科医として患者の手術も行った。翌58年には医学教育も始め、医師の養成にもかかわった。  

 彼の活動は大分だけでなく、全九州に及び、いったんマカオに渡って1580年に司祭になった後、再び日本に戻り、島原・天草を中心にキリスト教の布教と医療活動にかかわり、1583年10月、天草の河内浦(熊本県天草市)で生涯を閉じる。天草には「ルイス・デ・アルメイダの上陸地跡・南蛮船碇泊所跡」(河浦町)と「アルメイダ記念碑」(天草市殉教公園)というアルメイダを称える2つの碑が残っている。  

 医学史研究家東野利夫氏の調査では、天草には「南蛮の医者がここに来たげな。あっけらかんとした人で、足ば投げ出して長ギセル吸うて、ひょうきんなことば言うたりして、村のもんたちあ気楽に診て貰いよったげな」という言い伝えがあったという。その南蛮の医者とはアルメイダのことらしい。  

 アルメイダの活動範囲が九州だったこともあり、ザビエルほどの知名度はない。だが、日本の戦国時代にボランティアの先駆け的活動をした人がいたことはもっと知られていいはずだと思う。  ザビエルがポルトガル王の依頼でインドに派遣され、その後日本にやってきたのは1549年のことだった。首都リスボンベレン地区には「海洋発見記念碑」がある。その碑にはポルトガルを世界の航海国にしたエンリケ航海王子はじめヴァスコ・ダ・ガマやザビエルら多くの冒険者たちの姿が刻まれているが、アルメイダは入っていない。広場にはポルトガル人が日本(豊後)に漂着したといわれる年号(1541年)と日本地図も彫られ、日本とポルトガルの歴史を振り返ることができる。  

 いま、大分には「大分市医師会立アルメイダ病院」という、アルメイダにちなんだ病院があり、大分の地域医療の中心的存在になっている。アルメイダが心を痛めた貧窮の国は、450年以上の年月を経て、ポルトガルを追い越し、有数の経済大国になった。それは、ペソーアの言う「喜びと悲しみの歴史」でもあった。