小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

431 人間の宝物は言葉 奥田英朗の書きたいこと

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 ふと手に取った文庫本でも心にしみることがある。それが奥田英朗の「空中ブランコ」だった。変わった精神科医と5人の患者の診療を超えたペーソスとユーモアのある交流につい引き込まれていく。

 5話目の「女流作家」の最後に「人間の宝物は言葉だ」という文章がある。これに続いて「一瞬にして人を立ち直らせてくれるのが、言葉だ。その言葉を扱う仕事に就いたことを、自分は誇りに思おう。神様に感謝しよう」と、奥田は書く。その通りだ。言葉をつづる文章も人間しか持つことができない宝物だと思う。

 奥田の精神科医・伊良部一郎を主人公にしたシリーズは「イン・ザ・プール」が1作目で、「空中ブランコ」は2作目だ。こうしたシリーズ物は普通、1作目のできがいいのかと思っていた。しかし、このシリーズは、文章の冴えは「空中ブランコ」の方が格段にいい。だから、2作目で直木賞をもらったのだろうか。

 現実に戻ると、いま日本社会は閉塞感に覆われ、自殺者も年間3万人を超える事態が11年間も続いている。心の病と向き合う医師の重要性は高い。そんな時代だからこそ、伊良部シリーズは、心にしみるのだ。

 奥田は「オリンピックの身代金」で、一転してサスペンス長編に挑んだ。東京五輪、経済の高度成長を背景にした骨太な作品で、昭和という時代を描ききって見せた。その文章は技巧に走らず、あくまでも平易である。人間の宝物は言葉だという奥田の作家としての思いが一貫していることを感じた。 「小説は時間の無駄になるから読まない」という学者がいるが、奥田の作品を読んだら、その考えは変わるかもしれない。