小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

153 映画「天然コケッコー」 どこにでもある日本の原風景

画像

 映画をなぜ見るのか。人それぞれだろう。だから、この映画を見た感想も人によってさまざまだと思う。田舎暮らしをした人は自分の幼い時代を懐かしみ、都会暮らしの人は、美しい自然の中でゆったり流れる時間に憧れを抱き、人生をやり直すことができればこのような少年、少女時代を送ろうと考えるかもしれない。

 どこにでもある日本の地方の原風景を描いた作品は、清涼感あふれ、そして余韻がある。映画館を出ると暑い日差しが続いている。映画の舞台、島根をふと想う。 この映画は、人気漫画家・くらもちふさこの漫画を映画化した。島根県の田舎町を舞台に、小中学校併設で6人しか児童生徒がいない学校に東京から中学2年の男子大沢広海が転校してくるところから物語は始まる。

 主人公の右田そよと大沢の初恋を軸に話は夏から秋、冬、そして春へと島根の四季を織り交ぜ静かに進行していく。 そよや広海ら子どもたちが中心だ。子役たちの自然の演技がいい。大人役の佐藤浩一らの抑えたような演技がさりげない。 この映画について、8月14日の朝日新聞「銀の街から」で、作家の沢木耕太郎が書いている。沢木はこの映画はそよの成長物語なのだから「もうすぐ消えてなくなるかもしれなんと思いやあ、ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう」という独白について「必要のないものだったということになるかもしれない」と指摘する。 その通りかもしれない。

 この映画自体が、そうした大切なものがいつか消えていくことを静かに語りかけているからだ。近い将来学校が廃校になり、成長したそよは小さな学校での夢のような時間をいつしか忘れていくのだろう。だれもがそれを予感することができるのだ。 「天然コケッコー」 を見て、栃木県の廃校を訪問したことを思い出した。

 過疎化が進み、学校の統廃合が進んでいる。廃校になった元小学校が障害者のための美術館になっていた。栃木県那珂川町の「もうひとつの美術館」だ。館内を歩く。廊下の傷跡や古くなった机、椅子からどことなく、子どもたちの声が聞こえてくるような錯覚を覚えた。 最近、地方を旅することが多い。先日の北海道、その前の沖縄、さらに遡って四国、九州、東北。日本の原風景を見続けている。映画「天然コケッコー」は、それらを凝縮していると感じる。(07.8.15)