小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1398 カッサンドルと亀倉雄策と 五輪のエンブレムをめぐって

画像白地に赤い太陽と黄金の五輪マークを組み合わせた第18回東京五輪(1964年)の大会シンボルマーク(エンブレムのこと)の制作者、亀倉雄策(1915~1997)はフランス人グラフィックデザイナー、アドルフ・ムーロン・カッサンドル(1901~1968)を尊敬していたという。カッサンドルは「絵画はそれ自身で目的になるが、ポスター(広告)は売り手と公衆のコミュニケーションの手段にすぎない」という言葉を残している。彼は、見る者に衝撃を与えることが制作のポリシーだったという。その意味でも、亀倉の作品は日本だけでなく世界中に強い衝撃を与えた。 2020年の東京大会のエンブレム取り下げで話題の佐野研二郎氏は、ことし2月に第17回亀倉雄策賞を受賞している。この賞は、亀倉氏の遺族からの寄付を基に創設され、毎年『Graphic Design in Japan』応募作品の中から選ばれるもので、佐野氏の作品は「HOKUSAI_LINE」」という北斎漫画インスパイア展に出品したもので、受賞理由として「佐野氏のこれまでとは違う新たな一面が見られる」、「細やかで不思議な表現」(日本グラフィックデザイナー協会HP)などが挙げられている。 受賞の言葉で、佐野氏は亀倉の「シンプル、明快、太く」を目標にしてきたことを書いた後、「デザインはシンプルで深い。考え、それを超えるべく手を動かし、また考え、また手を動かす。邪念はいらない。デザインは思想だ。簡単に。深く。明快に。太く。でも簡単に」と続けている。五輪のエンブレムもそれを狙ったのだろうが、結果的に盗作騒ぎとなってしまい、スキャンダルという面で世界に衝撃を与えてしまった。 野地秩嘉著『TOKYOオリンピック物語』(小学館)によると、独自のシンボルマークが使われたのは、亀倉制作の東京大会が初めてだった。それまでは五輪のマークだけがシンボルとしてポスターなどに使われてきたが、独自のものをという亀倉の提案を組織委員会が受け、コンペを開いて彼の案を採用した。それは大当たりし、以後の大会でも大会独自のシンボルマークを作るようになったのだという。現在はIOCの規定によりオリンピックのシンボルマークを含む大会のデザインをエンブレムと呼び、招致に使われるものは招致ロゴ(2020東京大会の招致ロゴは女子大生の桜をテーマにした作品)といわれている。 亀倉は東京大会用にポスター4種類を制作している。中でも第1号の白地に赤い太陽と黄金の五輪マークを組み合わせたもの、第2号の陸上のスタートダッシュをとらえた写真(国立競技場で早崎治が撮影)と東京大会シンボルマークを組み合わせたものの2点は、いまでも記憶にとどめている人は多いだろう。 半世紀以上が過ぎても人々が忘れない亀倉の作品は、カッサンドルのいう「売り手と公衆のコミュニケーションの手段にすぎない」という広告作品の枠を超えているといえる。騒動を経て、2020東京大会のエンブレムは再公募されることになった。そこで選ばれる作品は亀倉を超えることができるのか、あるいは亀倉作品と同様、長く人に記憶に残るのか。それは後世の人しか知らない。 亀倉雄策の2つの作品はこちらから 以下は五輪がテーマの主なブログ 1056 知恵と独創性と躍動感と 「TOKYOオリンピック物語」 471 東京五輪の恩人 日系人和田勇の生涯 112 東京五輪の映画を見る 物流博物館にて 380 日本が燃えた時代の物語 オリンピックの身代金 1386 曲がり角の商業五輪 記録的猛暑の中で考える 1088 選手の人生狂わす五輪 ピストリウスお前もか 314 8月(6) 五輪の夏 野口選手に同情