小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1399 飽食の時代を考える 首相動静とミンダナオの事件

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 新聞に首相動静という欄がある。そこには首相の前日の動きが掲載されている。ちなみに昨日(8日)の夜の動静は「午後6時53分、東京・内幸町の帝国ホテル着。同ホテル内の宴会場『梅の間』で日本経済新聞社の喜多恒雄会長、岡田直敏社長らと会食。午後8時55分、同ホテル発。午後9時13分、東京・富ケ谷の私邸着。9日午前0時現在、私邸。来客なし」とある。

 これを見ていて思うのは「飽食の時代」という言葉である。 連日といっていいほど著名なレストランで政治家やマスコミ人、財界人たちと食事をする首相の姿は、飽食の時代を象徴すると私には映るのだ。外食を続けて体は大丈夫なのかと思ってしまうが、いらぬ心配か。

 8月に戦後70年の首相談話が発表された。その談話の中に「日本では、戦後生まれの世代が今や、人口の8割を超えている。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」というくだりがあった。

 そうだろうか。談話を読んだ私は、フィリピン・ミンダナオ島で起きた残留日本兵による食人事件のことを思い出した。作家で元共同通信記者の辺見庸は、この事件について『もの食う人びと』(1994年6月、共同通信社刊)の中の「ミンダナオ島の食の悲劇」で取り上げている。

 辺見はマニラのフィリピン公文書館戦争犯罪裁判に関する英文記録(1949年)を調べ、ミンダナオ島カガヤンデオロ市南東90キロのキタンラド山中で46年から47年にかけて地元民が残留日本人に殺され、その多くが食べられたことを知り、現地に入る。

 フィリピン軍大尉だった農民の案内で現地に行き村人と話をすると、「母も妹も食われました」「私の祖父も日本兵に食われてしまいました」「棒に豚のようにくくりつけられて連れていかれ、食べられた」-などの証言が相次ぐ。

 証言によると、被害者は38人に達し、「頭部など残骸や食事現場の目撃証言で事実は明白になっている」と、辺見は書いている。極度の飢餓状態の中で、残留日本兵は人間を食べるというタブーを犯してしまったのだ。

 この事件では残留した将兵30数人が投降し、マニラの戦犯裁判で組織的食人行為として10人が死刑、4人が無期懲役を言い渡された。その後、第6代のフィリピン大統領エルピディオ・キリノ(1948~53)が恩赦令を出して、死去した隊長をのぞく全員が帰国したという。

 同書によると、帰国後、キリスト教徒になった人、村に薬品を送ってきた人、現地入りして村民に謝罪していった人もいる―という。キリノは妻と子ども3人の計4人を日本兵に殺され、日本兵に対し強い恨みを持っていた。恩赦令によってこの事件の関係者を含む105人の戦犯が帰国したが、恩赦はその後の比日関係を考えた苦渋の政治的決断だったとみられている。

 食人事件の概要は1992年秋、共同通信マニラ支局の記者によって報じられている。しかし、日本側は調査団を派遣したこともないという。

 辺見はこれについて「事実を秘匿する力がどこかで動いたのだろうか。この事件がとても説明がつかないほど深く『食のタブー』を犯していることへの、名状しがたい嫌悪が下地になっているのではないか」「戦争を背景にした1つの過誤として、もう忘れたほうがいい。そんな意識もどこかで働いたためかもしれない。だが、私のすぐ前には、肉親が『食われた』ことを昨日のように語る遺族たちがいる。『食った』歴史さえ知らず、あるいはひたすら忘れたがっている日本との、気の遠くなるような距離。私はただ沈黙するしかなかった」―と記している。

 飽食を続ける首相に贈りたい言葉である。

 写真は、五島列島にある教会(記事とは無関係です)